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エッセイ~愚痴との上手な付き合い~

今年一発目のエッセイのテーマは
「愚痴」についてです。
愚痴というとあまりいいイメージがないかもしれません。
しかし世の中には「愚痴」で溢れてますし、
触れたくなくても触れる場面が多いと思います。

ちなみに私は愚痴というものが苦手です。
無意識に零れることはあるだろうけれど
進んで言う事に抵抗があります。
それは私の育った家庭環境によるものだと思いますが、
最近はそれが世の中の当たり前ではないぞと。

例えば野球観戦で言えば
「あの選手は全然打てない」など
あれは駄目だ、俺ならこうする、
など(どちらかというと野次?)
その瞬間は「誰でも批評家になれる楽しみ」があります。
そして一種のコミュニケーションとしても成立するのです。

私がスポーツ観戦する際には
「アスリートが積み上げた努力や姿勢に胸を打たれる」
「一流の技術」に焦点が置かれます。
ですので正直野次を楽しむ思考というものがピンとこないのです。

まあ楽しみ方は人それぞれでいいのですが、
批評楽しみ組が実感として多数いるため、
それに混ざれない、楽しめない自分にもやもやすることがあるのです。

さて、愚痴に対して造詣の浅い私が
よくやる失敗があります。
それは愚痴に対して「解決案」を提示してしまうことです。
元々愚痴になるような物事はないほうがいいと思っています。
ですので愚痴という懸案に対して建設的に失くす議論に進展します。
ですが愚痴を言う人にとって求めているのは
単に「聞いてほしい」だったり
「気持ちに寄り添ってほしい」というのが目的であって
決して解決、変化を求めているのではないのです。

逆に私は愚痴を言う懸案があれば
=解決に向かう議論がしたい、
または自分と違った見方を知りたい、が主目的となります。
しかし議論したところで解決しない問題だから愚痴なのであって、
結局解決しないなら愚痴を言っても無駄であると結論付け、
愚痴事態に価値を見出せないことが多いです。
ですのでストレスに対しては「好きな事をする」「表現方法として消化する」として発散しています。

愚痴の良さを知るうえで自分に足りないのは
「愚痴を言う事ですっきりする」という
成功体験ではないでしょうか。
それには解決が全てではなく、
「愚痴の存在価値」を認識することから
始まるのではないかと思います。

この文章もタイトルに対して何の解決にもなってませんけれども。


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