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エッセイ~弾き語りについて~

以前のエッセイ「幸せの粒子」の回で、弾き語りについて触れたことがありました。今回は弾き語りという行為が自分にどういった役割をもたらしているのか、別の視点でを考えてみたいと思います。



例えて言うと「食事的な側面」があります。
食事って何が食べたいとか気分がありますよね。
肉ばっかり食べてたらそろそろ野菜多めにしたいなぁとか、
最近カレーばっかりやから違うもの食べたいなぁとか。
また「栄養素的」にもビタミン、カルシウムなどバランスよく摂る事が健康上大事になってきます。

それと同じで、心も感情をバランス良く発散(発散による摂取とも言える)していく事が大事だと思います。それは幸せや喜びみたいなポジティブな要素だけでなく、怒りや悲しみも含めてです。
そういう意味でも「今、自分の中で喜び成分が足りてないなぁ」と感じれば明るめの曲だったり、生活の中で発散不十分な感情を引き出してくれるような役割があります。
あとは食事でもストレスが溜まれば暴飲暴食なんてこともありますよね。それと同じでストレスが溜まった場合、やさぐれた曲を叫ぶように歌うこともあります。若い頃はMr.childrenの曲とか負の感情の代弁的な意味で大変お世話になったなぁと思います。

少し話はずれますが、オリジナルや詩を作る行為についても触れておきましょう。弾き語りをする行為と違って、自分の心を「探索」する側面が強いように思います。
過去をさかのぼって、あの時、あの瞬間にはうまく言葉にできなかったけど、時間を置くとこう表現したかった、今ならこう言えるなど、自分の中にある過去問を解いていくような感覚。
そういう意味で私の曲は、描写は過去だけど感情は過去と現在をミックスしたり、自分の中ではごちゃごちゃしていることがあります。

そしてオリジナル曲が完成すると、それはコピーを歌うような役割としても存在し、その時の気分で歌う曲の一つとなります。ただやはり自分で作っている分、曲に対しての解像度が高いので、コピー曲よりもやや優先度が上になるような気がします。



まとめると「弾き語りは生活で発散不十分な感情を補う行為」という側面があり、オリジナル曲もできてしまえば似た括りとして存在しているということ。もちろんこれは一つの側面ですので、また思い付いたら別の回で書きたいと思います。

ちなみに今は大橋トリオな気分です(どうでもいいw)。

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