エッセイ~耕すという思考~
自分という畑を耕す事。
畑とは仕事、
畑とは生産、
畑とは生活、
広義の比喩として
話を進めていこうと思います。
【はじめに】
私は家庭菜園をやっているのですが、
小さな庭で自分が食べる分の食物を育てるという行為は
上記でいう「畑」の一端でもあり、
それの上位互換が「自給自足」ということにもなります。
経済的な観点を抜きにすると
そういった純粋な楽しさは
「小さな庭」があれば成立するのです。
【畑とは仕事】
経済的な面も考慮してみましょう。
生き方の一側面ということにはなりますが、
「小さな庭」での楽しさと「経済生産」が結び付けば
心の豊かさという面で一つの理想ではないかという事です。
極端に言えば「好きな事を仕事にする」という考え方になります。
ただその域に達するには現実として「専門性」の突出、
途方もない「継続性」によるブラッシュアップも必須になります。
それこそが自分を「耕す」という事とも言えます。
私も転職経験はそれなりにしてきてますが、
一貫して「飲食系」「店舗運営(もしくは工場)、人員管理」だったため、
職場が変わる=ゼロからのスタートではありませんでした。
そういう意味では同じ土壌での畑での耕し方は蓄積されているように思います。
ただ今回精神的な部分で休職中ということもあり、
同じ土壌の中でも「畑の広さ」「ペース配分」など考慮しなければいけないなとも思っています。
【畑とは生産】
一生を過ごすうえでどれだけの生産性が必要かという事は考えて損はないと思います。
実は私は生涯での収入や大きな支出など
ざっくりと計算してまとめています。
そうすることによって必要な「生産性」が見えてきますし、
どれだけ「遊び」の部分に使えるか予算を立てることもできます。
また「見える可」することにより夫婦での話し合いが明確に進み、
何かあっても軌道修正が容易になると考えています。
あと前提として私は「お金」と「豊かさ」は比例するとは思ってません。
別の言い方をすると、自分や家族分の食料を収穫する分岐点を探す行為でもあるのです。
【畑とは生活】
私達の生活には大きなテンプレートが存在します。
例えば「結婚する」「子供を育てる」「一軒家を買う」。
最近では変わってきてますが、
「テンプレート内の人生を歩むのが当たり前」という風習があるように思います。
確かにどう生きるか指標があれば分かりやすいですが、
「それ以外にも生き方は存在する事実」が見えにくい側面もある気がします。
そのうえで生きるために必要だと思うのは、
「正しいとされているものは本当に正しいのか」を疑う事と、
「自分なりの正解を探すこと」をセットにすること。
確かに「大きな畑」には憧れます。
ただ当たり前だという風習に流されて
手に入れてみたら管理仕切れずお手上げが一番怖いです。
そして「自分なりの正解」を知れば
「必要な畑のテリトリー」が分かってくると思います。
【おわりに】
段々と「畑」での比喩いる?という
ツッコミが入れられそうな予感がしますね。
私の文章も「耕し」が足りてません。
「耕すという事」は地道な積み重ねに他ならないし、
「豊かさ」の芽が出てくるのは、更にその先にあるように思います。
私も目先の結果に惑わされないように日々精進。
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