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エッセイ~議論と体験について~

議論している中でしばしば起こりうることとして
目線が自分の正当性だけを向いてしまうということです。
最近流行りの言葉でもある「論破」という概念。
ただそのひと時「論破」できていたとしても
両者は分かち合うことができるのでしょうか。

そもそも「自分の正当性、正義」はどこから来るのでしょうか。
ひとつには「体験」があると思います。
例として「体罰」を挙げてみましょう。
大雑把に「体罰」はよくない派閥と、
一概に悪いとは言えない派閥とに分かれるでしょう。
同じ議題の中で意見が分かれるのは
それぞれが「体罰」について別々の「体験」をしているということです。

実際「体罰」に合って嫌な思いをした「体験者」ならば
議論する中でそのエピソードが思い起こされるはずです。
また「体罰」を受けても、
自分に矢印が向けられることによって愛情の一つと捉えられたり、
それによって自分の間違いを正してくれたという「体験」の人もいるかもしれません。
同じ「体罰」という言葉から幾通りも違う「体験」が故に様々な意見が生み出されることになるのです。

また人は短い人生の中で、全てにおいて「体験」できるわけではありません。
そうなると「見聞きした」というのも判断材料になり得ます。
「体験」は主観としての絶対性がありますが、
「見聞きした情報」はその精度が定かではない可能性があります。
ではどうするか。
「自分にある別種の体験」と組み合わせて補足するのです。

例えば「サッカー経験者」「バスケット経験者」は異なる種類の
スポーツ経験者ではありますが、事柄によってはお互いの意見が一致します。
また「サッカー経験者」目線での「バスケット」、
「バスケット経験者」目線での「サッカー」という
お互いのすみ分けができることになります。
そういう意味ではお互いの立ち位置を知ることが第一歩とも言えるような気がします。

では冒頭の議題に戻りましょう。
「体験」がベースにある以上、相手の言っていることが100%理解できるという事はないでしょう。
そういう意味では議論をするというのは「食い違うことが前提である環境」だと理解することが必要です。
そしてその議論の目的、ゴールがどこにあるかということです。

「論破」するなら「論破」すること自体が目的ではなく、
「論破」した先に何かが変わる可能性があるということです。
また「体験」がベースである以上、自分がどんどんと「体験を上書き」していくことで議論の幅、視野が広がるように思います。




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