古墳の法則
『古墳とは天皇や豪族の墓で、当時は大きな盛り土を墓にするのが流行していて、権力の象徴でもあった。そのため権力者達は、生前から多くの民衆を使役し、高圧的に重労働を強いていた。』
と、このように学校で習った人が多いのではないでしょうか。ところが国史研究家の小名木善行さんは、全く別の見方をされています。すなわち、『古墳とは、水田開発の残土である。』というのです。言われてみれば、なるほどと腑に落ちる点も多々あります。
つらつらと古墳の立地場所を見てみると、平地の真ん中や平地のヘリが多いですね。ここら辺を平地になるように開拓したら、ここに古墳ができそうだ・・・
そんな風に見える古墳が多いのです。
とすれば、民は古墳を造るために脅されてかり出された訳ではなく、荒れ地を開墾するために、リーダーのもとに自発的に集まったのかもしれません。それは自分や自分の家族、子孫が、腹一杯食べるための大事業であったからです。
水路を引き、土地を水路に合わせて下げるとなると、大量の残土が出ます。その残土を一ヶ所に集めて崩れ防止に土留めをする。そしてそこにのぼれば、開拓地が見渡せたでしょうね。そこをリーダーの墓にした。
それはお礼の意味もあったでしょうし、もっと言えば、水害や干ばつ、虫害などから開拓地を護る、今度はその役割を死後のリーダーに託したのかもしれません。実際、古墳の上や真横に建っている神社は多いのです。
すなわち、【古墳とは、水田開発の副産物である。】という訳です。そうだとすると、古墳の持つ背景が、まったく違って来ませんか?
それだけにとどまらず、日本という国の国柄にかかわる大問題でしょう。
さて、あなたはどちらの説に蓋然性があると思われますか?
蓋然性(がいぜんせい)とは、真否の確実性の度合いを測る言葉です。どちらが真に近いのか。仮にそこで1000人が働いたとして、どちらだったらその1000人が集まったのか?
しかし考古学者の多くは、その蓋然性に見向きもしません。彼らはすぐに、『出た物からしか判断できない』と口にします。
(そのくせ使途不明な物が出ると、これは呪術に使用したとか宗教上の建造物だとかの推測は挟み込み、その推測は、宗教・祭祀に向かいます。)
要するに、古墳は目立つのです。確かに、そこにそれが在ると分かります。しかし、当時そこで水田開発が行われた証拠は出ません。
私は密かに、考古学者の出た物のみを見ようとし、そこからの類推を怠り、あるいは禁とし、事象の本質を見誤る(と私には見える)思考パターンを『古墳の法則』と呼んでいます。
その一例として、発掘調査との相性という点から、縄文時代の住居についての考察文を書きました。竪穴住居のように見つけやすい住居ではなく、遺跡から発見不可能な住居形態についてです。
ここでは別の一例のお話をします。これは、この先の『縄文旋風』の展開とも大きく関わる問題ですので、ここに投稿しておきます。
石川県の能登半島、その富山湾側に、真脇遺跡という縄文前期初頭から晩期終末まで、4000年に亘る人々の活動痕跡のある巨大遺跡があります。
そこの約5500年前の層から、足の踏み場もないほどの夥(おびただ)しい数のイルカの骨が出ています。第一頸椎をもとにカウントすると、個体数にして286頭。ただしこの遺跡は、総面積の4%ほどしか調査が終わっていないのです。つまりイルカ層自体は更なる広がりを持っていて、実際には何千頭ものイルカの骨が、地中に眠っている可能性があるそうです。
4000年続いたのなら、一年に1頭獲っても4000頭になるじゃないか・・・
そういう声が聞こえてきそうですが、はたしてそうでしょうか?
私は真脇遺跡縄文館に、電話で問い合わせたことがあります。
私 「何のために、イルカを獲ったのでしょうか?」
学芸員 「食べたのだと思います。」
私 「しかし多すぎませんか?おそらく追い込み漁でしょうから、
一度に相当水揚げされたはずです。」
学芸員 「近隣の人々が協力して漁をしたはずですから、
分配したのだと思います。」
私 「もちろん、分配はされたでしょう。しかし、目的は肉ですか?」
学芸員 「そうだと思います。犬のエサにしたと言う人もいます。
骨に歯型が見つかっています。」
私 「私は、とても食べきれないと思いますが。
骨は捨てていますから、皮を利用した可能性は?
イルカの皮の有効利用法は見つかっていますか?」
学芸員 「皮ですか? それについては、よく分かりません。」
私 「私は、目的は油だったのではないかと思っているのですが。
灯油(ともしびあぶら)です。」
学芸員 「油ですか・・・」
私 「もちろん、食べもしたのでしょうが。
その地では江戸時代にも追い込み漁が行われていて、
それは灯油を採る目的もあったようですよ。」
学芸員 「そうですか・・・」
私 「ランプ使用されたような土器は、出ていませんか?」
学芸員 「実は出ています。わずか2点ですが。でも年代が違う・・・」私 「と言うと?」
学芸員 「土器の方が新しいんです。4000年よりも新しい・・・」
私 「4000年前の層にイルカの骨が出る可能性は?」
学芸員 「有るかも知れません。」
私 「ランプの容器ですが、土器以外の物、
つまり残りにくい物で何か可能性はないかな?
あなたの周りで、そういう研究をされている方はいませんか?」
学芸員 「いません。」
私 「イルカの脂についての研究は?
何度くらいで融けるとか、固まるとか・・・」
学芸員 「いません。」
私 「みなさん、食べたで済ましてしまっている?」
学芸員 「そういう事ですね。」
私 「骨が出た場所は、当時の波打ち際、
つまり低湿地だったから骨が残った、でいいですか?」
学芸員 「そう考えています。」
私 「ご親切に教えていただいて、どうもありがとう。」
実際、いきなり電話しての質問でしたので、学芸員の方はよくお答えくださったと感心し、感謝しております。
私は方々に、電話質問や来場しての質問をして来たのですが、ハッキリ言って、たいがいのあしらいや、テイトーな応対を受けた事が何度もあります。そんな中でこの学芸員の方はとても真摯な態度であり、素人に教え諭す(こうゆう態度の人、すごく多いんです。)風でもなく、とても丁寧にお答え頂きました。その点におきましては、厚くお礼を申し上げます。
さて、地中に数千体と言いますが、しかしそれは、残存がという意味です。浜あるいは浅い海中で解体し、骨は海中に捨てている。そうやって、「低湿地」という骨が残るための好条件が整った部分の骨が残存し出土するのです。
低湿地を構成するためには、縄文海進と海退が大きく関与しています。5500年前と言えば、おそらく海退のタイミングに上手く重なったのでしょう。つまり4000年間に亘って、すべての年代で低湿地が構成されたとは思えません。
そして日本においては、骨とは非常に残りにくい物なのです。まず、地上にある骨は風化します。地中にある骨は酸で溶けます。日本本土の土壌は酸性ですから。日本本土で骨が残るケースは、大きく二つ。貝塚と低湿地です。(洞窟など他のケースもありますが。)
要するに、波にさらわれて、海の藻屑と消えた骨がどれだけあったのかは、まったく不明な訳です。私は、そちらの方が、遥かに多いと思っています。だって当時は、スーパー台風に襲われていた可能性が高いのですから。
地中に眠っている骨の数倍、あるいは数十倍(もっとかも)の捕獲量だったという見方をするべきではないのか?それも毎日一頭ずつ獲ったのではありません。魚やイカの群れを追って来たイルカの群れを、一度に大量に獲ったはずです。それに、漁をするシーズンもあったでしょうから、獲れる時に獲りまくったと見ていいかもしれません。
その肉を、はたして食べきれたのでしょうか?
それだけの人口が居たのなら、イルカの来ないシーズンは、何を食べていたのでしょう?
幕末にアメリカが江戸幕府に開国を迫ったのは、一つには捕鯨のためでした。当時のアメリカは捕鯨大国で、太平洋捕鯨の補給基地が欲しかった。では獲ったクジラはどうしたか?油を採ったのです。鯨油(げいゆ)ですね。肉は食べずに捨てています。イルカとクジラは、ほぼ同じ生き物です。
実際、江戸時代には、かの地のイルカ漁は灯油を採るためだったようです。灯油ならば、例えばヒョウタンに詰めて持ち運び自由です。立派な交易品になりますよね。私は、こちらの方に蓋然性を見出しているのです。
考古学界の認識は、イルカは食べる為に獲った。日常使いのランプなど、当時は存在しなかった。となります。
ランプが無かったと考えられている理由は、ランプの容器に相当する物(燈明皿)が出土していないからです。
(帆立貝の貝殻を燈明皿にしたのではないか?という人がいることはいます。)
釣手土器は出ていますが、地域限定型で数も少なく、ランプではあったとしても、日常使いではなさそうです。
私は、縄文時代にランプは有ったと思っています。遺跡から出土しない物質で作られたランプです。
それについては、『縄文ランプ』でお話しようと思います。