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挫折と評価:ブログ記事に見せられた現実と向き合って

最近書いてばかりで、読むことをおろそかにしていたことが、「災い」した。
noteのおすすめにあがった記事を眺めていた時のその一件に打ちのめ」された。

拙作の「三宮銀三郎」と実に丸かぶりの時代背景を持ち、その中の「お陽」と同様の境遇のキャラクターが出てくる。
しかし、そこで示される「文」の出来は、天と地(あなたが今思ったその高さのさを数千倍数万倍していただいた上での)ほどの差がある。

最初の一行で、私の三宮銀三郎はほぼ徹底的にノックアウトされている。
引用は怒られるかもしれないがあえて引用する。

笠岡には寺や社が多い。狭い道を行けばすぐに寺社に行き当たるので、その度に志鶴は手を合わせた。

(*´Д`)
もうね、なぜ見えるのかと。志鶴が若い年齢であることがもうこの一文でわかるのだ。
「行けば~行き当たるので」だろうと考える。経験を積めば「行き当たる」ことはない。「行き当たる」ためには、浅い経験であることが必要だ。
歴史小説家であるという前提は必要であったのかもしれないが、笠岡という地に長く住んでいるとするならば、寺や社がどんなに多かろうと「行き当たり」はしない。例えば「いちいちそのすべてに手を合わせる」のような感じだろう。

へこむへこむ、冒頭の一文に力量さを思い知らされる。いや、プロ作家様においついているなんて微塵も思っちゃいないですよ。
でもね、かかとの裏側位には指が触れているのではと思っていたんですよ。
そんなこと全くなかったわけです。

それと、私の文に時々現れる「つっかえ」
あれがもう、いやでいやで仕方がないのですが・・・
私はその「つっかぜ」が修正できないままに記事に挙げているわけですが、それも全く見当たらない。
そりゃそうです。読み手に金払わせようというのだから、当たり前、ブログ記事だけど、ブログ記事じゃないんだから。

で、またへこむわけですよ。
私の三の「三宮銀三郎」も同人誌位にはできて、販売できたらなと思ったこともありましたが、いや、恥ずかしくてできなくなりました。
ブログ記事として誰かのお目汚しになっているだけでも、ありがたいこと。そうでなければ、全部削除してけつまくって逃げるしかないです。

あぁ、天はぜ私に一物も与えてくださらなかったのか。恨みますよ>紙様仏様

そうではありませんね。努力が足らんのです。

でもね、「伊藤佐吉は努力して努力して努力して、もう命脈が尽きている」とか書いちゃったその矢先ですよ。
いっそ、銀三郎を不幸のずんずんどん底に追い落として、伊藤佐吉を主人公にしてやろうかと・・・

何言ってんだか・・ねぇ。