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みんな違ってみんな良いとは?

僕は先日、高校からの友人男女合わせて6人でカラオケに行った。カラオケに行って初めのうちはみんなで楽しく歌っていたが、後半になるとお話の方がメインとなり、恋バナに花が咲いた。「どんな人がタイプ?」みたいなざっくりとした話から始まり、高校の時のぶっちゃけ話まで結構盛り上がった。どんな人がタイプか?という質問に顔がいい人と答える人が半分、性格がいい人と答える人が半分とちょうど半分半分で軽く議論になった。
「タイプが性格がいい人って答える人は嘘だって思ってる」少し怒り気味でAさんが答える。
「でも顔だけで好きになってちゃんと長続きするの?」Bさんが答える。
「俺が合わせるんだよ」無理だろと思いつつ、すごいなぁと感心した。
「息が詰まるだろ。そんなことしてたら。」
「顔が好きだから尽くせるんだよ。」みんなの前では絶対できない会話だよなと思いながらも少し共感した。
「お前面食いだから嫌い!」Cさんが割り込んできた。
「そんなこと言うなよ!wでも実際最初の印象は顔とかスタイルなんだし、みんな顔から入るんだよ。」正論だな。と思った。そこに僕ならこう付け加える。「顔が少しでも良くないと、タイプじゃないと、内面を知りたいとすら思われないしな。」って。ルッキズムってすごく嫌な言葉だった。でも現実はルッキズムが全てで、いちいち絶望なんてしていられない。学校という場所はルッキズムという概念を生み出していると思う。運動会、発表会、テスト…など、目に見える結果がルッキズムという概念を生んでいる。運動会であれば、リレーの選抜メンバー、徒競走の順位、クラスへの貢献度。テストでは学力の差、自分の学力の立ち位置。目に見える結果を他者と共有することで優劣が生まれる。顔がイケメンかブサイクかとかは言うまでもなく他者との比較の上で優劣が成り立っている。その優劣がより際立つのがクラスという単位だと思う。クラスという限定した3、40人のまとまりがその他者というのを確立させ、自分はAさんより劣っていて、Bさんよりは優っていると比較の対象が明確になる。「みんな違ってみんな良い」という言葉。僕は結構嫌いな言葉だ。みんな別々の良さがあるというのは裏を返せばみんな別々の悪さもあるということで、その人の良さに着目するなら良しなのだが、人間は悪さの方が際立って見えるので悪さの方が先行してその人のイメージになってしまう。それは偏見もそうだ。その人がゲイであるだけで、その人の親が犯罪者であるだけで、それが自分にとって悪いイメージであれば偏見であってもそのイメージがその人に棲みついてしまう。それは顔でも、運動神経でもそうだ。顔が悪ければ、運動神経が悪ければそれだけで見下す対象になる。それが明るい性格ならイジられキャラになるし、暗い性格で話すのが苦手ならいじめのターゲットになる。ルッキズムの精神が僕は嫌いなのに、自分にもどこかにその精神があって…だからやるせない。どの口が言うんだと思われてもいい。実際僕もその精神を持っているから。でもその現実を多くの人に知ってほしい。自分と対等な誰かなんて存在しないってことを。対等だと思っていただけかと自分にも必ずどこかに違いがあって、その違いで比較され、優劣をつけられる。その優劣は目に見える違いでしかつけられないから、顔が良い人、運動神経がいい人、話すのが上手い人、勉強ができる人が評価されて、優しい人は損をする。それが社会だから、、優しい人を評価するのは余裕がある人だけ。余裕がある人なんてお金持ちかお年寄り、幸せな人だけだからそういうひとに好かれたいなら優しくするべき。見返りを求めない優しさは舐められるだけ、頼られるだけ。それで損をするくらいなら優しくする人を選ぶべき。それが賢い生き方だと思う。「みんな違ってみんな良い」ならその良さで優劣をつけるな。僕はそう思う。

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