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「モモ」私にとっての時間泥棒は誰なのか。

「灰色の男たち」が街の人々から時間を奪っていく。モモは灰色の男たちと闘い、奪われた時間を取り戻す。そんな、善悪二項対立の分かりやすい物語なのだが、現実社会に当てはめて考えるとちょっと難しい。

リアルな社会にも時間泥棒はたくさんいる。例えば、とんでもなく退屈で話題の合わない人しか参加していない飲み会。誘われるだけでもストレスです。しかも終電の時間まで帰れない。長い。当然、参加したくない。だけど、もしかしたら飲み会に誘ってくれている人はモモなのかもしれない。そして、私は灰色の男たちに時間を奪われているから、「そんな退屈な集まりに参加する時間なんてない」と思い込んでしまっているだけなのかもしれない。

一方で、本当の私は道路掃除夫ベッポでもある。

道路掃除夫ベッポは頭が少しおかしいんじゃないかと考えている人が大勢いるのですが、それというのは、彼は何か聞かれても、ただニコニコと笑うばかりで返事をしないからなのです。彼は質問をじっくりと考えるのです。そして答えるまでもないと思うと、黙っています。でも答えが必要な時には、どう答えるべきか、時間をかけて考えます。そしてたいていは二時間も、ときにはまる一日考えてから、やおら返事をします。でもその時にはもちろん相手は、自分が何を聞いたか忘れてしまっていますから、ベッポの言葉に首をかしげて、おかしな奴だと思ってしまうのです。
「モモ」ミヒャエル・エンデ p47

そして、人間だれしも床屋のフージーのように憂鬱になることがある。

「俺の人生はこうして過ぎていくのか。」と彼は考えました。「はさみと、おしゃべりと、石鹸の泡の人生だ。俺はいったい生きていて何になった?死んでしまえば、まるで俺なんぞもともといなかったみたいに、人に忘れられてしまうんだ。」
p77

たいてい、こういうことを考えるとき、人は疲れている。そして、大体こういう考えは、仕事が終わって、家に帰っている途中に浮かんでくる。だから、とにかく寝てしまえ。休め。と、ニーチェは言っていました。
しかし、人間のこういう憂鬱を、灰色の男たちは見逃しません。「おしゃべりなんかしていないで、短時間でどんどん客を回しなさいよ」「自分の腕で仕事をしていても稼げないよ、人を雇って、店舗を増やして、余剰利益を得なきゃ」。まさに、資本主義、新自由主義。
だけど、「将来どんな役に立つのか?」「どんなメリットがあるのか?」ということばかり考えていると、みんなイライラしてきて、仕事が楽しくなくなってきて、良い仕事をしようなんて気持ちは起きず、いかに楽をして速く仕事を終わらせるかと考えるようになる。子供たちは習いごとばかりして、「遊ぶ」ということができなくなってしまう。本のなかでは、このような状態は致死的退屈症と呼ばれています。

時間をつかさどるマイスターホラは言います。「時間泥棒に時間を奪われないように自分で管理しないといけない」と。では、参加したくない飲み会は時間泥棒なのか?それとも私が既に時間を奪われているから、飲み会が退屈だと思ってしまっているのか?はたまた、飲み会に参加している人達の方が時間を奪われている致死的退屈症の人たちだから、話しをしても楽しくないのか。分からない。難しい。でもやっぱり参加したくない。参加した方が良いのか。

と、深みにはまり考え込んでしまう。でも、本を読むことはあきらかに「モモ」寄りの行為だ。本を読むこと自体が楽しいし、べつにそれが将来の役に立つとか立たないなんて私は考えていない。ただの知的好奇心。ただただ、知りたい、読みたい、本に囲まれていたい。

ということで、結論が出たわけではないのだが、現状では「私は本が読みたいので、つまらない飲み会には参加しない」ということになる(笑)。

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