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プールの後の出来事

昨日、市民プールに泳ぎに行きました。

夕方5時から夜7時までは、ドリル中心の軽いメニューをこなしました。

夜の7時から9時までは、水泳の団体貸し切りレーンで泳ぎました。
主に、IM(バタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形)を25m×1分サークルで行います。
この練習で大分力がついてきたことを実感しています。

水泳メンバーの1人から、帰りのロビーで矢継ぎ早に話しかけられました。

よく一緒に泳ぐのですが、挨拶くらいでじっくり話したことはなかったので、人見知りの私は身構えました。

話自体は世間話なのですが、なんとなく、失礼ですがその方の雰囲気が不快で、その場から逃げ出したかったです。

その方曰く、私に対して、「今日は仕事だったんですか」とか、「ゴールデンウィークは仕事は休みなんですか」といった内容で、話としてはごく普通の内容です。

何かと「仕事」に絡めたことを聞きたがる。

私は、リハビリ中で仕事をしていないという負い目があるため、
適当な答えが思い浮かばず、しどろもどろになってしまいました。

私は馬鹿正直なため、話し始めると時間が足りない。

かといって、簡単には説明できない。

だから、曖昧な返事をしていました。

私が察するに、彼は私が仕事をしていないことを暗に詰って、仕事をしている自分のことを、偉いというか何というか苦労していて上なんだというマウントを取りたい人間なんだなという直感がありました。

でも、それは穿った見方で、単に彼から見て私が何らかの理由で羨ましいというか嫉妬の対象だったのかもしれません。

もしくは、いいカモだと思ったのかもしれません。

そこの真相は、わかりません。

その方の言っている真意が未だはっきりわからないため、この方は、私から何を聞き出そうとしているのだろうと、疑心暗鬼になりました。

市民プールのロビーは、いつもプール営業終了時間10分後に締め出されてしまうため、そのメンバーさんと外で話すことになりました。

すると、衝撃の一言。

「あなたが発達障害だと一目でわかった」

と宣ったのであります。

なぜ、分かったのかと伺うと、なんとなくわかったようなわからないような理由をつけるのですが、とにかく、わかったというのです。

どうして、私が、外で話そうと思ったかというと、その方が、「私も半分病気みたいなものです」と言ったからです。

そこで、意を決して病名を聞いてみると、「境界性」とだけ答えました。

境界性と言えば、境界性パーソナリティー障害か境界知能の2つ存在することは私は知っていて、この方は、前者ではないと思いました。

境界性とは、おそらく境界知能のことを指すと思われます。

それから、どれくらい時がたったでしょうか。

たぶん、約1時間その水泳団体のメンバーさんは、仕事のことで辛かったこと、苦しかったことをマシンガントークのように話し続けました。

正直、家に帰って、晩飯を食べて、寝る前の睡眠薬を飲んで早く寝ないと、私がおかしくなってしまうと思いました。

なぜならば、私は、病み上がりの体で無理がきかないため、いつも9時には就寝しており、金曜日は特別に夜の9時まで練習しています。

金曜日は、なんだかんだで帰りは10時頃で、就寝は11時頃になります。

私は、健康維持のため早寝早起きをするようにしています。
具体的には、夜9時、遅くても10時には寝て朝6時に起きるようにしています。

でも、その水泳メンバーさんの話には継目がなく、延々と話し続けました。

普段、その水泳メンバーさんは、そういう仕事や自らの生い立ちを打ち明ける人がいないとおっしゃっていました。

だから、私という存在は、彼にとってサンドバッグとして丁度よかったのかもしれません。

家に帰って、両親にそのことを話すと、父曰く「そいつはおかしい」の一点張り。

母は、話を聞くなりヒステリーを起こす。

両親に話しても何も解決するどころか余計嫌な気持ちになるだけでした。

こういう話は、主治医に話すべきだと痛感しました。

そういう時のためのメンター=主治医だと悟りました。

その水泳メンバーの方に「境界知能のことを受け入れていますか?」
と尋ねました。

案の定、受け入れてはいませんでした。

病院に行ったことがあるようですが、定期的に通院していないようです。

それは、彼が悪いというより社会が境界知能に対してまだまだ知識が足りていないというのが実際だと感じました。

また、社会からの差別・偏見を彼が恐れているのを感じました。

ちなみに、その境界知能の当事者の方は50代なのですが、当時は、「努力しろ」とか「怠けるな」とかそういう精神論がまかり通っていた時代だったのではないでしょうか。

身近に、しかも、自らカミングアウトしてきた人は、私が先にカミングアウトしたとはいえ、健常社会ではいなかったので驚きました。

健常者と障害者は正反対なものではなく、誰でも障害者になる可能性がある。

私の両親は、考えが古く、とにかく自分のことは隠せとよく言います。

それは、私にしてみれば、否定された気持ちになります。

今は、多様性の時代です。

発達障害を障害と捉えるか個性と捉えるか?

発達障害と呼ばれる人は、昔からいたはずです。

今になって発達障害問題が顕在化したのは、現代が高度に文明化したため、今まで人間が担ってきた仕事が、オートメーション化されたことによって、発達障害的な人向けの仕事がなくなってしまい、なおかつ、サービス業という発達障害当事者が苦手とする仕事が中心になったことにあるのではないだろうか。

いろいろ考えさせられた1日でした。







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