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二次創作「いかにせむ彦五郎どの」(後編)

○永禄六年

松平次郎三郎は「元康」から「家康」へと名を改める。しかし、この改名は三河に波紋を広げることになる。 
大草の松平昌久「義元公の一字、「元」を捨てるということか?」
東条吉良家、吉良義昭「「家康」の「家」は、八幡太郎義家公の「家」か? わが吉良家も凌ぐつもりか!」
桜井の松平家次「今川の言いなりにはなりたくなかっただけじゃ。ほどほどに駿府の殿様に物申してくれればよかったのじゃ。西は織田、東に今川、北に武田を相手取って立ち行くのか?」
三河国衆が困惑する中、今川方は西三河、長沢城の前まで押し出す情勢になっていた。

遠江、見付端城の堀越氏延は「花蔵の乱」、「河東の乱」において今川義元に反旗を翻した経緯がある。そこへ来て、「松平逆臣」、菅沼定盈の蠢動、井伊直親の粛清が続くこととなった。捲土重来、堀越氏延は再度、反旗を翻す。氏真は「三州急用」として領国全体に臨時課税を行う。また、犬井の天野景泰は幼年の当主を後見していたが、その立場をいいことに所領を横領していた。
氏真は犬井の天野氏に触れを出す。幼年であった当主も既に成年に達し、もはや後見の要は無し、また如何なる仕儀であるのか、滞っていた所領の訴訟についても審議を始め、子細を明らかにし検断する、と。天野景泰が叛乱を起こしたのは、そのすぐ後のことであった。

しかし堀越氏延は東三河から取って返した小原鎮実らの軍勢に敗れて自刃する。もとより訴訟が原因で孤立していた天野景泰に与する者は少なく、近隣の国衆に攻め込まれて天野景奈は失脚した。

松平次郎三郎は「家康」への改名に続き、三河三箇寺の本証寺への「不入の権」を改め兵糧米の徴発を命じる。本証寺への「不入の権」の改定と検断が行われると、上宮寺、勝鬘寺は吉良義昭に「不入の権」の維持を掛け合う。
吉良義昭「次郎三郎は思い上がっておる。それに先だって氏真公からは「三河静謐を図り、よろしく御家来衆をまとめられよ」との書状を受けておる。三河の地は吉良家の本貫なり。この義昭、三箇寺のこと、粗略にはせぬ」
三河において松平昌久、松平家次、酒井忠尚、小笠原広重らが挙兵。吉良義昭、荒川義広、夏目広次も同調するに至った。

次郎三郎にとってはこの三年の成果の半分を失いかねず、吉田城代の小原鎮実らが東三河に戻り、氏真自ら三河表に出張ってくることも考えられた。

十二月に入ると、本証寺の空誓上人が門徒衆に檄文を飛ばす。次郎三郎の岡崎城は西から上宮寺と松平家次、東から勝鬘寺と松平昌久に挟まれる形勢となる。
世に言う「三河一向一揆」である。「岡崎逆心」も、これでけりがつくかに思われた。

氏真に岡部元信が急を告げる。岡部元信「引間城の飯尾連龍殿、謀叛!」遠江の引間城城主、飯尾連龍が謀版を起こし、 連龍の姉婿の松井宗親、姿をくらましていた天野景泰も加わっていると言う。
氏真は落胆の色を隠せなかった「なぜじゃ。覇道は王道に如かず、ではないのか。不義不仁は糺さねばならぬはずじゃ。余に何が足りぬというのか」 栄は氏真の傍に寄り添うも、かける言葉が見つからなかった。

○永禄七年
次郎三郎は三河の国中に広がる一揆に見舞われることとなった。一揆は岡崎城の目と鼻の先まで迫り、松平の家臣たちは慌てふためいていた。
そんな中、次郎三郎は三河の地図をじっと見ていた。しばらくして次郎三郎は膝をぽん、と打つ。次郎三郎「・・・・・・。東三河に打ち入る」 思いもよらぬことを言われ、家臣たちは呆気にとられてしまう。酒井忠次「目と鼻の先まで一揆勢が迫っておるのですぞ」
次郎三郎「いや、東三河じゃ。手ごわき敵は避けよ。固き砦も避けよ。勝ち易きに勝ち、勝ちを積むべし。東三河でも勝たば、西三河でも我らは勝つ」他に妙案もない中、家臣たちは次郎三郎の方針に従った。

二月。次郎三郎は岡崎城の南、上和田と小豆坂で一揆勢を撃破して出鼻を挫く。四月には山中、長沢から豊川を越えて浜名湖西岸の鷲津砦で刈田を行う。東三河どころか、もはや遠江の国境である。
抵抗する国衆の内、小笠原広重が次郎三郎に従属を誓う。荒川義広の八ツ面城も陥落。
次郎三郎に抵抗する国衆が次々と降伏、あるいは打ち破られた。敗北を悟った吉良義昭、松平昌久は三河国外へ退去する。

次郎三郎は東三河一帯を荒らしまわり、西三河でも次郎三郎に対して挙兵した国衆は降伏している。駿府の氏真は一向に三河に姿を見せない。五月になり二連木城の戸田重貞が次郎三郎に帰順する。さらに次郎三郎は砦を築いて小原鎮実が守る吉田城を孤立させ、渥美半島の付け根、今川方の田原城も封鎖してしまう。

その頃、氏真は軍勢をかき集め、引間城の飯尾連龍討伐に向かっていた。四月、頑強に抵抗する飯尾勢を苦戦の末に退け、馬込川で飯尾連龍に勝利する。飯尾連龍は敗北を認め、氏真と和議を結ぶこととなる。ところが氏真が軍勢を率いて今川館に戻ると、翌月には飯尾連龍は再び謀叛に及ぶ。

九月に氏真は引間城近隣の国衆たちに命じて飯尾連龍を攻めさせるも、三浦正俊、中野直由、 新野親矩らが討ち死にしてしまう。惨敗と言ってよかった。
ただ飯尾連龍も無傷では済まず、松平次郎三郎は浜名湖の鷲津までは出張ってきたようだがそれより先に進む気配はなく、遠江においても飯尾連龍に続いて挙兵する国衆もなかった。
連龍の姉婿、松井宗親の斡旋で氏真と飯尾連龍との間に和議が結ばれることとなった。

九月ごろ、三河では最後まで次郎三郎に抵抗を続けていた上野城の酒井忠尚が城を捨て駿河に逃亡する。年の初めには西三河の半分にまで追い詰められたかに見えた松平次郎三郎だったが、終わってみれば西三河をほぼ手中に収め、 東三河についても過半を制するに至る。

今川氏真は領国の統制を強めようと図るも、引間城の飯尾連龍が謀叛し、討伐することも屈服させることもできなかった。遠江の天竜川より西は、氏真の意のままにならぬ形勢と言えた。


〇永禄八年

三河、柏原。鵜殿長忠に仕える加藤善左衛門は腕組みをしながら唸っていた。加藤善左衛門 「うーん。うーん」
お葉「いかがされました、父上。これは鉄砲でございますか?」
加藤善左衛門「そうじゃ。先々役に立つと思い、金を借りてまで買い込んだのじゃ。義元公にも一層、ご奉公できると思ってな。ところが義元公はあのような目に遭われてしもうた。それにこの鉄砲、あちこち金具が動かなかったり、ひどい代物よ。直せぬこともないらしいが、また金が掛かる。それに買ってから分かったのじゃが、玉薬のほうがよっぽど金が掛かる。鉄砲の玉も玉薬も使えばそれで終わり、次々買い足さねばならぬ。使えぬ鉄砲に、借金じゃ。うーん」 
お葉「父上。岡崎のお城では奥向きの人手が足りず、人を集めているとか。働きに行こうと思います」
加藤善左衛門「あ、いや、すまぬ。愚痴が過ぎた。お葉はそんなことをせんでもよい。鉄砲の借金はわしの見込み違いゆえ、わしが何とかする」
お葉「されど実のところ、わたくしが働きに出た方がようございましょう。それに日頃から己の稼ぎで己の身を立てたいと思っておりました」
加藤善左衛門「さようか。そういってくれるか。お葉、苦労を掛ける」

部屋を出たお葉に侍女の美代が言う「お葉さま。成り行きとは言え、お父上の肩代わりをなさるとは孝行にございます」
お葉「なんの。父上にも申したが、どこぞに嫁いで奥に引っ込むより己で稼ぐほうが性に合っておる。それに美代や。ここだけの話じゃが、 正直わたくしは睦言の何が面白いのやら、よくわからないのじゃ」

お葉は岡崎城に上がり、奥向きで勤めることとなった。すると、そのことをどこからか聞きつけた鵜殿長忠から加藤善左衛門は呼び出されることとなった。
もしや、主家に黙って娘を松平次郎三郎の城に勤めさせたことが寝返りと見なされたか。
加藤善左衛門は急ぎ鵜殿長忠の城に赴く。
鵜殿長忠「善左衛門よ、娘が岡崎城に勤めに出ておること、まことか?」
弁明する加藤善左衛門「娘のお葉はわしのためを思って働きに出てくれたのでござる。直ちに呼び戻しまする」
鵜殿長忠「それには及ばぬ!いや待て、やはり呼び戻せ。善左衛門、でかしたぞ」加藤善左衛門は事情が飲み込めなかった「はあ・・・・・・」

鵜殿長忠「そなたの娘、お葉と申したか。一度呼び戻し、わしの養女として改めて岡崎城に勤めさせよう。次郎三郎と縁故ができる」
加藤善左衛門「長忠様、駿府の今川様の方はよろしいので?」
鵜殿長忠「今、三河で次郎三郎に楯突いたところで立ち行かぬ。父は義元公の妹君を娶っておられたが、その父も既に鬼籍に入っておる。ささ、早くお葉を呼び戻して参れ」
こうしてお葉は鵜殿長忠の娘として、改めて岡崎城に上がることとなった。

東三河では、松平方の砦に包囲されていた吉田城がついに開城、小原鎮実は吉田城を退去し遠江宇津山城に入る。同じく田原城、牛久保城も降伏、牛久保の牧野氏は次郎三郎に従属した。次郎三郎はついに三河一国を平定する。次郎三郎は東三河を酒井忠次に、西三河は石川家成に監督させ、次郎三郎自身は本多忠勝、榊原康政らを中心に一之手衆を編成、備えも充実することとなった。


次郎三郎の正室、瀬名は飯尾連龍の妻、田鶴に文をしたためていた。田鶴さまとは従姉妹同士、たまにはお会いしたいもの、飯尾連龍さまと一緒にお越しくださいませ、次郎三郎も歓待いたすでしょう。
田鶴も返事をしたためる。往時の今川館の賑わいをおぼえておいででしょうか、なつかしいものです、お会いできる日を心待ちにしております。 田鶴の返事は瀬名には届かなかった。三浦義鎮が手を回し、田鶴の返事を手に入れていたのであった。

三浦義鎮はいささか焦っていた。次郎三郎の、 三河一向一揆の討伐もそこそこに東三河に打ち入るという一手で風向きが変わってしまい、攻め落とした野田城、富永城はすぐに松平方に取り返されてしまった。次郎三郎は三河一国を切り取ってしまい、父の小原鎮実は吉田城から退去せざるを得なくなってしまった。
三浦義鎮は田鶴の返事を持って、氏真に上申する。これぞ、飯尾連龍と松平次郎三郎の内応の密約である、と。三浦義鎮は、ずい、と詰め寄る「三河を切り取った次郎三郎めと引間城の飯尾連龍殿が手を組めば「岡崎逆心」「三州錯乱」どころではすみませぬ!今なさるべきは断固たる処分でございまする!」
氏真「連龍は余の出仕の命に応じ、駿府に参じた。これだけで内応の証拠とは見なせぬ」

三浦義鎮はひとまず引き下がった。
三浦義鎮は独り言つ「お館様はお分かりになっておらぬ。今川家の危機じゃ。某を難じるかもしれぬが、後々正しかったとお分かりになるはずじゃ」三浦義鎮は自身の手勢を動かし、駿府の飯尾屋敷に討ち入る。
飯尾連龍は槍を手に取り奮戦するも三浦義鎮の手勢に取り囲まれ、討ち取られてしまう。連龍の姉婿、松井宗親も共に討たれた。

飯尾連龍の妻、田鶴は「おんなといえども弓馬の家の者」と言って白粉を滑り止めとして薙刀を構え、侍女たちにも薙刀を持たせた。
三浦義鎮の足軽らが田鶴を取り囲む。田鶴は右に払い左に払い、薙刀で足軽らの脛を斬る。
田鶴は侍女たちに「敵は多い。脛を狙え」と呼びかける。
易々と引っ立てられると思っていたものが、むしろこちらの足軽らが討たれてしまう。
三浦義鎮「何をしておる!槍の穂先をまっすぐ相手に向けよ、薙刀に斬らせるな!」
薙刀を手に勇戦するも多勢に無勢、田鶴と侍女たちは全員討ち死にするに至った。

事の次第を聞いた氏真は三浦義鎮に怒を発す 「なぜ連龍を討った!連龍は余の出仕の命に応じた、と言ったはずじゃ」
三浦義鎮は平伏して「叛意を抱く者が事を起こした後では違うございまする。一罰百戒にござる。咎はいくらでもお受けいたしまする」
飯尾家は三代前の今川義忠の代から今川家に仕えていた。その飯尾家が上意討ちに遭う。三浦義鎮は正しかったのか、今川家ではこののち二年間、大きな謀板は起こらなくなる。


○永禄八年、九年、十年

見付端の堀越氏延、犬井の天野景泰、引間城の飯尾連龍の謀叛を鎮圧し、遠江一国を揺るがした騒乱はひとまず決着することとなる。氏真は井伊谷に徳政令を発布するなど、領国の建て直しを急いでいた。

一方、甲斐の武田家では重臣の飯富虎昌が武田信玄への謀叛を企てていたことが発覚する。
飯富虎昌は粛清され、飯高虎昌が傅役を勤めていた信玄の嫡男、武田義信も東光寺に幽閉されてしまう。
永禄十年十月。武田義信が死去、自害とも病死とも言われる。同、十一月。信玄の四男、諏訪勝頼に織田信長の養女が嫁ぐ。武田義信の正室は氏真の妹であった。武田信玄のやり様は今川家と手を切り、織田家に乗り換えるとも言えるものだった。

氏真「信玄公、なんと無体な!」三浦義鎮「このままでは西に松平、北から武田に攻められかねませぬ。越後の上杉に呼びかけ、信玄の目を越後に向けさせるべきかと」
めずらしく岡部元信が発言する「お館様。織田と武田の盟約に当家も加わると言うのはいかがでしょう?せめて織田とだけでも盟約でも取り交わせれば信玄公も易々とは手が出せぬのでは?」
三浦義鎮「ほう?それでは岡部殿、何をどうすればよいのですかな?」 岡部元信「それは・・・・・・。それがしには思いつきませぬ」
三浦義鎮「机上の空論ですな。織田信長が承知するわけがありませぬぞ」
氏真「父上は信長に討たれた。その信長と盟は取り交わせぬ。上杉は武田とたびたび争うておる。こちらが呼びかければ、きっと応じるはずじゃ」

確かに越後の上杉輝虎は信濃、川中島で武田信玄とたびたび戦っていた。
しかし永禄七年、信濃の塩崎城にて上杉、武田両軍が睨み合いで終わった戦を最後に、上杉輝虎も武田信玄も川中島で戦うことは無くなっていた。時を前後して永禄二年、上杉輝虎は上洛し、将軍・足利義輝と謁見を果たしている。輝虎の「輝」はその時に受けた一字である。上杉輝虎は北陸経略に軸足を移しつつあった。


○永禄十一年

二月。三河、設楽城の近く。普段はほとんど参詣する者もいない古寺に、この日は北から十数人、南からも十数人、集まっていた。

室内は張り詰めた空気で満ちていた。「馬場美濃守じゃ」「武田刑部少輔にござる」
酒井忠次「 酒井左衛門尉にござる」
石川数正 「石川伯耆守でござる」
馬場信春 「本題に入るといたそうか。今川氏真、海道を治めることあたわず。よって、駿河は武田、遠江は松平。異存はござらぬな」
酒井忠次「異存ありませぬ。ただ、武田家は北条家とも深き縁の間柄のはず。そちらはどうなっておりましょうや?」酒井忠次の懸念は、こたびの戦は武田単独であるのか、それとも武田と北条が共に駿河に打ち入ることも有りうるのか?という点だった。
馬場信春「ああ。そちらはこちらで何とかいたすゆえ。心配にはおよばぬ。それでは」

馬場信春と武田信康は早々に席を立つ。室内には酒井忠次と石川数正の二人が残った。
石川数正「駿河は武田、遠江は松平。言葉通り受け取ってよいものですかな」
酒井忠次「相手は他でもない信玄入道じゃ。油断はできぬ。またこちらとしても馬鹿正直に、たわけたことをする云われもない」


岡崎城に戻った酒井忠次、石川数正は松平次郎三郎と地図を前に遠江攻めの算段を練る。
酒井忠次「戦は稲刈り入れが終わった後、冬頃になりましょうな」
石川数正「大井川まで進むとなれば、あまりのんびり構えてもいられませぬ」
次郎三郎「浜名湖は通れるのか?」
酒井忠次「通れますが使えぬでしょう。西側の宇津山城に小原鎮実、東側の堀江城には大沢基胤。今川方でこちらになびく素振りもありませぬ」
次郎三郎「では井伊谷から打ち入ることになるか。引間城をいかに早く攻め落とすかが肝要じゃな」
石川数正「井伊谷の方は先代の井伊直親殿が上意討ちに遭い、徳政令で煮え湯を飲まされております。こちらに付くでしょう。引間城を早く落とせる手でもあればよいのですが」
次郎三郎「奥仕えのお葉。義父の鵜殿長忠殿の妹が飯尾連龍殿に嫁ぎ、連龍殿が討たれたのち、その妹御が城を切り盛りしていると言う。その筋から掛かれぬか」
石川数正「ふむ。いけるかもしれませぬな。取り計らいましょう」

お葉は引間城を守る鵜殿長忠の妹、ふきに文を送る。「長照さま亡き後、長忠さまは松平家に従うこととなりました。これも時勢というもの。わたくしも松平次郎三郎さまの側仕えをしております。ふきさまのこと、決して粗略にはいたしませぬ」


十二月六日。武田信玄は二万五千の軍勢を率いて甲府を出立する。武田勢が富士川を下り、駿河湾に達したとの報は急ぎ今川館にも届けられる。

氏真は小田原の北条氏康に通達し、氏真自身は諸将を率いて薩埵山に布陣する。先鋒は庵原忠胤の六〇〇〇、その後に岡部直規と小倉資久ら七〇〇〇。氏真は清見寺で督戦する。

薩埵山には庵原忠胤、興津川西岸に岡部直規と小倉資久が守る二段構えの布陣であった。

武田信玄は氏真の布陣を聞き、地図に兵棋を置く。穴山信君 「今川氏真、凡庸、家来使いの不器用と聞いておりましたが中々の布陣」
武田信玄「見事な布陣じゃ。だがそれだけじゃ」
穴山信君「すでに今川方の諸将を調略しておりますからな。我らの勝ちは疑いありませぬ」
武田信玄は嘆息する「調略一つで戦に勝ちたいものじゃな。出来得れば、これほど楽なことはない。ときに小山田信茂はどうしておる?」
穴山信君「ははっ。こたびの戦、大軍ゆえ小山田隊には間道を進ませましたが、今ごろどこにおるのやら」
武田信玄「信茂はそれでよい。さて、そろそろ始めるか」
武田勢は真田信綱、真田信輝を先鋒とし、その後ろに山県昌景、武田信玄という布陣であった。ただ二万五千にはいささか少ないように見えた。


そのころ、馬場信春は一隊を率いて小河内から興津川を下っていた。馬場信春はまた、旗指物を大量に用意させていた。

出立の数日前、馬場信春は武田信玄から、本隊とは別に一隊を率いて興津川を下るべし、との命を受けていた。
席を立つ馬場信春を武田信玄は呼び止める「信春よ。興津は「争地」というべきかもしれぬな」 
馬場信春「「争地」・・・・・・。承りました」


真田信綱、真田信輝が先陣を切って戦は始まった。薩埵山の周囲は山がちで道は狭まり、高所に陣取る庵原忠胤は武田勢相手に一歩も退かなかった。このまま踏みとどまれば北条家の軍勢が武田の背後を突き、今川と北条で武田を挟み撃ちに出来る。勝ちが見えたかに思われた。

興津川で異変が起こる。興津川の東岸に大量の武田家の旗指物が続々と翻ったのである。
興津川西岸に陣取る岡部直規と小倉資久は驚く。武田の手勢が回りこんだか。旗指物から見て兵の数は一万を下らぬのではないか。庵原殿からは何も伝令を受けておらぬ。武田信玄を前に、伝令を出す暇も無く蹴散らされたか。

興津川の東岸に武田の一隊が現れたとの報は庵原忠胤の陣にも届いていた。
庵原忠胤「それほど数は多く無いかも知れぬ。物見を遣り、その数を岡部殿と小倉殿に知らせるのじゃ」
その時、庵原忠胤の陣に横槍を入れる者があった。間道を進んでいた小山田信茂率いる一隊である。小山田信茂「これは面白い所に出た。者ども、 攻めかかれ!」

退路を断たれた、興津に現れた武田勢が後ろから攻めかかってくる、武田信玄にはやはり勝てぬ。

庵原忠胤「皆の者 うろたえるな!」庵原忠胤の叱咤も空しく薩埵山の今川勢の一隊が逃げ出し、それに他の隊も続けて逃げ出す。

山県昌景が押し出すと薩埵山の今川勢は総崩れになった。

興津川東岸の馬場信春は向こう岸の岡部直規と小倉資久は見向きもせず、薩埵山の方を見ていた。しばらくして、馬場信春は侍大将に指示を出す「向こう岸の岡部と小倉の陣に矢を射掛けよ」 侍大将「まだ御館様の本隊が到着されておりませぬが」
馬場信春「まあ、じきにお越しになるじゃろう。今仕掛けて早すぎるということもなし」

矢を射掛けられた岡部直規と小倉資久は恐慌した。やはり、東岸に陣取る武田勢は囮ではなく本隊か。
そうこうしている内に馬場信春の言葉通り、興津川の東岸には薩埵山を突破した武田勢が続々と到着する。今川勢と武田勢の兵数の差は大きく開き、興津川西岸の今川勢も撤退してしまう。


武田信玄の本陣。穴山信君「御館様の神算、感服いたしました。己の不明を恥じ入るばかり。 調略をしかけるのみならず、馬場殿を背後に回りこませて敵方を動揺させ、小山田信茂に横槍を突かせた」 
武田信玄「軍略とはそういうものではない。信茂に間道を進ませたが、どこに出るかまでは読めぬ。まさか横槍を突くとは思わなかったがな。僥倖じゃ」

岡部元信が清見寺の氏真本陣に駆け込んでくる。岡部元信「お味方総崩れ。寝返る者あり、逃げ去る者あり。ひとまず今川館まで退きましょう」
氏真はわずかな供廻りで今川館に逃げ帰るほかなかった。氏真「おのれ、信玄め・・・・・・。おのれっ・・・・・・」

氏真と岡部元信は今川館にたどり着く。岡部元信「今川館では戦えませぬ。賤機山にお移りになるべきかと」氏真「兵が足りぬ。同じことじゃ」
栄「お館さま」氏真「奥よ。余は武田信玄に勝てなかった。すまぬ」 
栄「朝比奈泰朝さまから書状を預かっております。利あらざる時は懸川城にお迎えいたす、と。 お館さまの無事が知られれば、志ある者も集い、朝比奈さまの手勢を加え再起が計れるやもしれませぬ」
氏真「余の武運もここまでじゃ。生き恥をさらして何となろう」栄は下唇をかみ締めた。
栄は袿を脱ぎ、小袖の裾をからげる。侍女「奥方さま!何とはしたない!」
栄「生きるか死ぬかという時に姫も奥もありませぬ!お館さまもその大鎧は打ち捨てられるべきかと。追っ手への目くらましになりましょう」気おされる氏真「う、うむ。わかった」 栄はさらに、袿をしばって二歳の娘のおんぶ紐にする。
栄、氏真、岡部元信らは供廻りと共に、徒歩で懸川城を目指す。


十二月十二日。次郎三郎は八〇〇〇の兵を率いて遠江に打ち入る。すでに近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時らが内応しており、彼らの先導で井伊谷を通って十七日には天竜川に達し、引間城を包囲する。

引間城は静まり返っていた。次郎三郎「首尾はどうなっておる?」
石川数正「鵜殿長忠の妹、ふき殿からは城を明け渡す、と内々に返事がありました。こちらが鉄砲を三発はなてば、ふき殿は城を出て下馬の礼を取るという手筈になっております」
石川数正が合図を出し、たーん、たーん、たーんと鉄砲の音があたりに響きわたる。

引間城の門が開き、薙刀を手に甲冑姿のふきが馬に乗って現れた。

ふきの周りには薙刀を構えた侍女が付き従っていた。四歩、五歩とゆっくり馬を進めて、ふきは馬から降り薙刀を侍女に預けた。

膝をつくふき「飯尾連龍の妻、ふきにございます。松平次郎三郎さまに引間の城を引き渡しまする。城内、城下の者には何とぞ寛大なお沙汰を」
次郎三郎「かたじけない。ふき殿、よくご決心なされた」
松平次郎三郎は引間城に入る。十二月十八日のことであった。

武田信玄は鎧袖一触、今川勢を破り今川館に入った。松平次郎三郎は井伊谷を通って迅速に天竜川まで進み、引間城に入る。
次郎三郎が引間城に入ったとの報は遠江に知れわたり、次郎三郎に付く国衆が相次ぐ。
今川館を落ち延びた氏真は朝比奈泰朝の懸川城に入り再起を計るのであった。


○永禄十二年

前年、松平方の奥三河衆が何者かの手勢と交戦、敗走する事態が起こっていた。奥三河衆を敗走させたのは武田家臣、秋山虎繁の手勢であった。石川数正は武田信玄に書状を送る。駿河は武田、遠江は松平と取り決めた約定に反するものである、と。

それに対し武田信玄は、秋山は地理不案内で粗忽者ゆえお手間を取らせ申した、ご勘弁を、と返す。

石川数正「信玄入道、煮ても焼いても食えぬ!それに何たる言い草か!」
次郎三郎は相変わらずつるりとした顔をしている「秋山とやら、大軍ではあるまい。であるのに我が方を手玉に取り、縦横に兵を進める。侍大将にしてこの将才。やはり武田はあなどれぬな」
石川数正「殿!我らは虚仮にされたのですぞ!」


一方、相模の北条氏康は武田信玄の駿河侵攻の報を聞くや、上杉家、里見家と停戦を進め、軍勢を富士川に差し向ける。

一月二十六日、北条勢は薩埵山砦を攻略。

安倍川を渡り、進軍を続けていた武田信玄は急ぎ引き返して興津城に入る。武田勢は奪われた薩埵山砦をたびたび攻めるも北条勢を切り崩すには至らず、兵糧が底をつき始めていた。

武田信玄「口惜しい」穴山信君 「まこと、向背さだまらぬ北条に我らが雄図を阻まれるとは」 武田信玄はふたたび嘆息する「甲斐があと少し肥沃であればのう。致し方なし、躑躅ヶ崎館に帰るとするか」

四月二十八日、武田勢は庵原郡の間道を抜け、 甲斐へと引き返していった。


氏真たちは懸川城に到着する。朝比奈泰朝 「こたびの戦、まことに残念至極。されど、ここからが勝負でござる。お館様はわが祖父、泰熙が取立てたる新しき城にお入りくだされ。それがしは古城を守りまする」

懸川城は逆川沿いに新城、その北東に古城が建ち、逆川から水を引き込み外堀としていた。

大鎧を今川館に打ち捨ててきた氏真は、大袖を付けず胴丸のみを纏う。そこへ三浦義鎮も懸川城に落ち延びてくる。
朝比奈泰朝 「義鎮!今まで何をしておった?」三浦義鎮「この義鎮、お館様への忠義は一片の曇りもございませぬ!某にお任せ下され!某の策をもって次郎三郎の首を取ってご覧にいれまする」
氏真「事ここに至っては策は不用。お館、足軽の別なく力を尽くして戦うのみじゃ!」
岡部元信「一所懸命、戦いまする!」 今川勢は意気を大いに上げるのであった。


懸川城に松平勢が姿を現す。懸川城の周りに付け城を築いて取り囲み、次郎三郎は懸川城の北、天王山砦に本陣をしく。
氏真、岡部元信、三浦義鎮は懸川新城、朝比奈泰朝は懸川古城を守る。

一月十二日。ついに松平勢の懸川城攻めが始まる。古城を守る朝比奈泰朝は松平勢の寄せ手を押し返し、一時、天王山砦まで攻めのぼるほどであった。
次郎三郎は自ら手勢を率いて新城を攻めるが、氏真らが奮戦し、付け入る隙がない。かえって朝比奈泰朝の横矢を受けることとなる。今川、松平双方、睨み合ったまま時を過ごすことになる。

石川数正「まずいですな。新城を攻めれば古城が横矢を仕掛ける、古城を攻めれば新城が横矢を仕掛ける。そもそも我らは城二つまとめて攻め落とすだけの兵は持ち合わせておりませぬ。北条が今川に付いたとのことですが。ええい、信玄入道め、何をもたもたしておるのか」
次郎三郎「いや。へたに武田に来られてもまずい。武田勢が懸川城を攻め落としでもすれば、すべて信玄の手柄になってしまう。遠江の国衆はそう見るやもしれぬ。・・・・・・。いっそ、和睦するか」
石川数正「殿!せっかくここまで漕ぎつけたというのに!」
次郎三郎「我らはそもそも今川義元公の下にあった。北条と手を結び氏真殿と和睦するのも、無い話では無いはずじゃ」

懸川城内は松平勢の寄せ手を幾度も押し返し、士気が高まっていた。岡部元信「松平勢、恐るるに足らずじゃ!」
三浦義鎮「お館様!某に起死回生の策がございまする!敵が古城に取り付いた隙に、某が一手を率いて天王寺砦を攻略、次郎三郎めの首を挙げてご覧にいれまする!」
氏真「いや。守りに徹する。北条勢を待つ。北条勢が松平勢の背後を突く、そこにのみ我らの勝機がある」
三浦義鎮「このままではじりじりと押し切られますぞ!お館様!お館様!」

その夜、三浦義鎮は城内の足軽頭たちに触れ回っていた。三浦義鎮「お館様からの密命じゃ。我らは勝ち運に乗り、敵が怖気づいているこの好機に打って出て、天王山を目指し次郎三郎の首を取る。 他言無用じゃ」

翌日、松平勢は古城に攻め掛かった。新城の岡部元信は松平勢の動きに目を凝らす「逸るな。 十分に引き付けて横矢を射掛けよ」
その時、懸川新城の大手門が開く。三浦義鎮「皆の者、 進め!目指すは次郎三郎が首一つ!」
三浦義鎮が足軽頭と足軽らを引き連れ天王山砦に攻め掛かっていく。岡部元信 「何事じゃ?!」

氏真「何をしておる!早く門を閉じよ!」
足軽頭の一人「お館様の策ではないのですか?三浦殿が、そのように」
氏真「そのような命は出しておらぬ!」

夕暮れになり、三浦義鎮が連れ出した今川勢が戻ってくる。戻ってきた者は十に、二人か三人であった。
足軽頭「あっという間に囲まれ、散り散りになってしまいもうした」
氏真「義鎮はいかがした」足軽頭「松平の馬廻衆に取り囲まれ、その後は見ておりませぬ。十中八九、討ち取られたのではないかと」

氏真は憐れに思われた。しかし憤懣やる方なくもあった。

氏真「・・・・・・。これでは勝てぬ!」岡部元信 「あきらめるのはまだ早いかと存じます。古城にはまだ朝比奈泰朝殿がおられます」

氏真「泰朝の兵を二つに分けてこちらに寄こせば、新城も古城も共倒れじゃ。泰朝と朝比奈勢を新城に引き入れれば新城は保たれるが、古城は松平勢に明け渡すことになる。さすれば、我らは城外からと古城から松平勢に攻められよう」 氏真の勝機は失われた。


五月。武田信玄は既に甲斐に引き返していた。 北条は氏真と次郎三郎、双方に使者を送る。

今川と松平との間で和睦が成立した。懸川城を次郎三郎に譲り渡し、松平と北条は盟を結ぶこととなる。

氏真は九年ぶりに次郎三郎と面と向かって言葉を交わす。
氏真「・・・・・・久しいな、次郎三郎」
次郎三郎「お久しゅうございます、氏真殿。今川義元公、武運つたなく御落命の由、まことにご愁傷様でございます」
次郎三郎はつるりとした顔で氏真の眼をまっすぐ見ながら、まるで一ヶ月前のことかのように言った。
竹千代とはこのような者であったか。氏真は次郎三郎をまじまじと見るばかりであった。


氏真「駒なへて 世にあわぬ身を いかにせむ・・・・・・」下の句は整わなかった。
栄は氏真の後姿を見とめる。栄に気付き、振り返る氏真「奥か。案ずるな。己が非才に呆れておるだけぞ」三河、遠江、駿河を失い、北条家の軍勢を後ろ盾に、かろうじて立つ身の上であった。
栄「お館さま」氏真「もはや今川家は見る影も無い。お館様、などと。空しいばかりじゃ」
栄「・・・・・・。治部さま」氏真 「一片の領地すら無いのに、官途を称しても滑稽なだけじゃ」
栄「それでは、彦五郎さま」 氏真は栄をはっと見る。氏真「彦五郎か。そうじゃな。今川彦五郎氏真じゃ」

彦五郎と呼ばれ、清澄な心持ちがする氏真であった。

氏真「礼を申す。奥よ」栄「彦五郎さま、であればわたくしも、栄、とお呼びください」氏真「うむ。栄、栄よ」


今川氏真と栄は駿河の蒲原城に移る。 永禄十二年五月十七日のことである。 (了)

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