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「“一○○万貫”のいくさ 一天正小牧長久手合戦始末異聞」その8 (全8回)

天正十二年(1584)三月下旬。紀伊雑賀衆、柴田勝家の残党が大坂を襲撃する。
襲撃は大坂の町衆らを混乱に陥れたが、程なく羽柴方の留守居役に撃退された。 

四月の初めごろには丹波国や美濃国で織田家の残党と思しき浪人が兵を挙げ国中を騒がせていた。

土佐の長宗我部元親は讃岐国、十河城を包囲。陥落は時間の問題と思われ、 讃岐平定ののちは長宗我部勢が淡路、播磨、摂津に攻め寄せる恐れもある。

美濃、尾張方面では羽黒の戦い以降は織田・徳川勢と羽柴勢の睨み合いが続き、小牧山城と岩崎山の土塁を挟み、 時折、ののしり合いと礫を投げあう石合戦があるばかりであった。

羽柴秀吉は楽田砦の本陣に池田恒興、森長可、堀秀政、羽柴秀次たちを呼び寄せた。 
羽柴秀次は秀吉の姉、ともの子であり、秀吉からは甥に当たる。

秀吉「今日は、そこはかとなき事がありそうじゃのう」 秀吉は尾張周辺の地図を前に、もったいぶって話し出す。 

秀吉「このままでは埒が明かん。よって中入り策を行う」 中入りとは先陣を避け、敵のふところ深く打ち入る戦法である。
秀吉は地図の上で美濃から三河へ指を動かす。

池田恒興「悪くはない。では三河に打ち入る一手の将は長可がよかろう」 池田恒興は中入りを行う一手の将に娘婿の森長可を推薦する。

秀吉「いや。池田隊六〇〇〇、森隊三〇〇〇、堀隊三〇〇〇、秀次の八〇〇〇、計二万で中入りを行う」

池田恒興「待て、筑前(秀吉)。中入りは少勢で行うもの、かように大勢で打ち入れば敵方にたちまち気付かれてしまう」 

秀吉「ただの中入り策にあらず。相手にいかなる武辺者がおろうが、小細工を仕掛けようが関わりなし、必勝の策じゃ。 家康の本貫、三河への打ち入り。これは誘いじゃ。三河、岡崎まで打ち入る必要は無い。各々方、織田勢、徳川勢が思いのほか多く驚いたであろう、わしも驚いた。しかしあれだけの兵を集めるとなれば、信雄様も家康もかなり無理をしたはずじゃ。中入りと見せて篠木、守山を固め、三河と小牧山城を断ち切るのじゃ。中入りに乗ってこなければ、敵方は小牧山で干乾しになるであろう。 家康が怖気づき、和を請うてくるかもしれぬ。家康が打って出てくる場合、小牧山の兵の過半を連れ出せばわし自ら小牧山を落とす。小牧山が落ちて、家康が慌てて引き返せば各々方は敵の背に攻めかかればよい。家康の首を取るのも容易かろう。引き連れる兵が過少であれば、それこそ各々方の餌食じゃ」

堀秀政が問う「家康が兵を半分に分けて打って出てくる場合はいかに?」

秀吉「その時はわしと各々方で家康を挟み撃ちにすればよい」

秀吉は立て板に水のごとく、策を示す。
羽柴秀次は無邪気に言う「さすが叔父上。これならば万に一つの負けも無い」

森長可は腕を組みながら地図をにらみ 、ため息をついてはまた地図をにらむ。一手の将を任される所が当てがはずれ、秀吉の采配に従うのも面白くなかった。

池田恒興「儂はかように込み入った策は好まぬが、今回は筑前の策に理があろう。三河中入りの一手、任せよ」 

秀吉「おお! かたじけない。百戦錬磨の池田殿の前では家康など物の数ではございますまい。お頼み申しましたぞ」

池田恒興「長可。子細を詰めるぞ。あとで儂の陣所に来てくれ」


森長可は池田恒興の陣所を訪れる。

池田恒興「長可、どう思う?」 

森長可「秀吉、しばらく見ぬ間にあのような策を思いつくまでになっておったのですな」 

池田恒興「儂は秀吉の下心の方が気にかかる。兵の数じゃ。儂と長可を足せば九〇〇〇で秀次より多く、儂を持ち上げるような形になっておるが、一番率いる兵が多いのは秀次じゃ。いきおい手柄は一番多くなる。 あるいは秀吉、儂らを鉄床のごとく、秀次は鉄鎚のごとくするつもりなのではないか、 と踏んでおる」 

池田恒興は、秀吉が池田、森を囮にして甥の秀次に手柄を立てさせる算段ではないか?、と言う。

森長可は憤る「それは戦ではござらぬ!」

池田恒興「儂とて秀吉の算段に乗せられるつもりなど毛頭ない。そこで此度の戦、儂は隊の先陣に就くこととする」

森長可「義父上。年甲斐も無く、猪武者のようなことはお止めくだされ」

池田恒興「秀吉に策があるなら、儂にも策はある。秀吉は儂らを鉄床、秀次を鉄鎚にするつもりであろうが、鉄鎚になるのは儂らの方じゃ」 池田恒興は秀吉の算段を逆手に取る策を森長可に耳打ちする。森長可「・・・・・・ なんと!」

池田恒興「おそらく秀次は美濃、尾張の土地勘は無かろう。儂の居場所について聞かれたら、舅殿は年ゆえ出遅れておるなり、休息を取っているなり、うまくごまかしておいてくれ」


秀吉は中入り策決行に先立って三河の国人、土豪に金子をばらまき、寝返りの調略を仕掛けていた。 

四月六日夜半。池田恒興隊、森長可隊、堀秀政隊、羽柴秀次隊が西三河に向かって出立する。 翌七日、夕。池田、森、堀、羽柴秀次ら出立の報せが小牧山の家康の許に届けられる。秀吉の調略にも関わらず、三河の国人たちは家康を裏切らず、かえって秀吉の中入り策を家康に報じたのであった。 

本多正信「動いたか!」 

家康「して、兵の数は?」三河国人衆の使いの者は羽柴勢二万から二万五千と答える。

二万という数字に皆ざわめく。中入りの羽柴勢は小牧山城の徳川勢と織田勢を合わせた兵数に匹敵するからである。 

家康「我らは敵に先んじて小牧山に入り、今また三河の国人衆はわしを見限らず秀吉の策を伝えてくれた。この勢い、手放すべきではない。打って出るぞ」

榊原康政「殿。某は大須賀康高殿、水野忠重殿、丹羽氏次殿と先行し小幡城を固めまする」 家康「うむ。わしも急ぎ準備を整え、後に続く」 

四月八日、夜。家康は出陣を決断。榊原康政、大須賀康高ら四五〇〇が先行し、続いて家康隊三三〇〇、井伊直政隊三〇〇〇、織田信雄隊三〇〇〇が小幡城に移動。小牧山城に六五〇〇を残し、酒井忠次と本多忠勝は留守居役とした。


堀秀政隊、羽柴秀次隊が南に進み篠木、上条砦にさしかかったところ、森長可が馬廻を連れて留まっていた。 

羽柴秀次「おや。池田恒興殿を追い抜いてしまったのか?」

堀秀政「池田殿はどちらに?」

森長可「舅殿は年ゆえ休んでおる。間に合わせますゆえ、皆様は先を行かれよ」 

羽柴秀次は淡々と「さようか」と答えた。
堀秀政は思った。執り成しが悪い、この戦は何かがおかしい、と。

羽柴秀次隊はそのまま南に進み竜泉寺砦に入る。堀秀政隊は南東に向きを変え矢田川を渡る。池田恒興隊、森長可隊は庄内川の上流、大留砦に向かっていた。庄内川を渡って、山あいの稲葉を抜けて矢田川を渡り、徳川方の岩崎城まで到着していた。


過日、池田恒興が森長可を本陣に呼んだときのこと。

池田恒興「この布陣でそのまま進めば我らが先陣となり、後備えの秀次は頃合いをみて家康に攻め掛かることができる。そこで我らは山あいの道を進み秀次を引きはなすのじゃ。長可、お前は秀次を川沿いの道のほうに誘き出せ。秀次が先陣として家康に真っ先に当たり、我らが後備えとなるのじゃ。おそらく矢田川と香流川の間、白山林のあたりでぶつかることになろう」

池田恒興の策は羽柴勢の布陣をひっくり返すことになり、先陣の池田隊が本陣に切り替わることになる。

森長可「義父上。秀次が竜泉寺砦に入り、動かなかった時はどうされる?」

池田恒興「岩崎城を攻め落とさねばならぬな。竜泉寺砦と岩崎城を固めて小牧山と三河を断ち切るのは秀吉のそもそもの案じゃ。秀次がそのように動くのであれば大したものじゃが、まあ、そうはなるまい。ところで、兵糧であるが節約しておけ。儂の勘じゃが、この戦、長引くぞ」 


四月八日、深夜。小幡城に徳川家康、榊原康政、井伊直政、そして織田信雄ら諸隊が集まる。

物見と土豪の報告から羽柴秀次隊八〇〇〇は小幡城の南東、一里足らずの白山林にいることが明らかになる。 

この事は榊原康政、井伊直政を大いに悩ませた。羽柴秀次隊はなぜあのようなところにぽつんといるのか。

どこかに伏兵がいるのか? 罠が仕掛けられているのか? 何か策があるのか? 

織田信雄「家康殿。なぜ出陣せぬ」 

榊原康政「左中将(信雄)様。今、物見を放っております。しばしお待ち下され」井伊直政「物見に敵の伏兵、布陣を探らせておりますゆえ」

織田信雄「秀次に策など無い。ただ無為に時を過ごしておるだけじゃ。疾く攻め掛かられよ」 

家康は、案外そうなのかもしれぬ、信雄の見立て通りかもしれぬ、と思った。

家康「信雄様のお下知じゃ。直ちに出陣し、羽柴秀次に攻め掛かる」

榊原康政は急ぎ陣立てを整える。

榊原康政「御意にございます。しからば大須賀、水野、丹羽(氏次)が先陣をつとめ、某は左備えをつとめまする。左中将様、殿と直政は頃合いを見て止めの一手を」

織田信雄「うむ。秀吉に目に物みせてくれようぞ」織田信雄は意気軒昂であった。

井伊直政は顔をこわばらせていた。家康は井伊直政の肩の辺りをぽん、とたたく。

家康「直政。お主は聡く、目端が利く。戦の先の先を考えておけ」

井伊直政「先の先・・・・・・。は、ははーっ」


一昨日。堀秀政は馬を走らせ羽柴秀次を訪ねていた。堀秀政は秀次隊の進軍を促す「秀次殿。もう少し速く進めませぬか」 

羽柴秀次「我らの役目は徳川勢をつり出す事。これぐらいでよいのではありませぬか。心配めさるな。叔父上の策に従っていれば勝ちは疑いなし」

明智光秀と山崎で戦った時は天王山と淀川の隘路をなかなか突破できなかった。

柴田勝家と賤ヶ岳で戦った時は丹羽長秀と秀吉の増援が遅れた場合、戦況はどう転ぶか分からなかった。秀次はそれを知らぬのか。

堀秀政「急ぎ香流川を渡るか。さもなくば竜泉寺砦に入られますよう。御免」 堀秀政は自身の隊に戻っていく。

羽柴秀次「気ぜわしいお方じゃ」


四月九日。空は白み始めていた。羽柴秀次は庄内川を渡り、ようやく矢田川を渡って白山林に差しかかる。 

秀次隊の後ろから鬨の声があがった。西から大須賀康高隊、水野忠重隊、丹羽氏次隊が襲い掛かる。完全に不意を突かれた秀次隊は周章狼狽し、北から榊原康政隊に攻めかかられると潰走し、あっという間に香流川まで乗り崩される。 

羽柴秀次は馬を失い、徒はだしで逃げる。秀次を逃がすため、目付の木下祐久、木下利匡が踏みとどまって徳川勢を押しとどめた。


堀秀政隊は香流川を渡って岩崎城の近く、金萩原に布陣。堀秀政は手勢を三つに分け、一番後ろの隊は北を向かせていた。

朝日が昇る。堀秀政は使番の報告を受け、北の香流川の様子を窺うと、銃声と鬨の声が響きわたっていた。 

堀秀政「急ぎ陣を北へ移せ。川の手前に陣を敷け」堀秀政は隊を取って返し、香流川の南岸の桧ヶ根に陣を敷く。

堀隊の侍大将「羽柴秀次殿が窮地、急ぎお助けせねば」 

堀秀政「こういう時は攻め時を見きわめねばならぬ。早すぎれば負け戦の勢いに呑まれ、無論おそすぎては手遅れとなる」

堀秀政は軍配を手に、追う徳川勢、逃げる秀次隊をつぶさに見ていた。軍配を握る手に力がこもる。 
堀秀政「者ども、攻めかかれ!」鉄砲の音が鳴り響き、火薬の煙が立ちのぼり、足軽が押し出す。

射すくめられた榊原康政、大須賀康高らの隊列は崩れ、北へと退いていく。

堀秀政は敗走する羽柴秀次隊を香流川の南岸に引き入れる。秀次隊は一〇〇〇ほどに打ち減らされていた。 

堀秀政「秀次殿」秀次は恐れおののくでもなく、呆けた様子であった。

羽柴秀次「木下の、祐久殿が、利匡殿が。わしをかばって死んでしもうた。うめき声も。うなり声も」秀次の目から涙がぽろぽろとこぼれる。
堀秀政「秀次殿。しゃんとなされよ。秀次殿を無事に秀吉殿の前にお連れせねば、某がしかられまする」 

堀秀政は羽柴秀次を連れて北へ引き返し、白山林、長久手を離脱していく。


榊原康政、大須賀康高らは香流川と矢田川の間、 岩作の辺りで隊列を整えていた。 

羽柴秀次が余りにも早く崩れ、榊原隊、大須賀隊らも勢いあまって乗り崩したために徳川家康本隊との間が離れすぎていた。 

家康が岩作に到着した頃には既に榊原康政、大須賀康高らが羽柴秀次隊を追い散らし、堀秀政隊は北へと逃れたあとであった。

榊原康政は家康に報告する「面目次第もありませぬ。いささか勝ちを急ぎすぎました」 
家康「うむ。画竜、点睛を欠いたのは残念であったが、我が方に倍する敵を乗り崩した。面目を施したと言えるのではないか」

榊原康政は恐縮する。そこへ使番が報せを伝える。 

南の岩崎城は陥落、岩崎城を攻め落とした池田恒興隊、森長可隊が北へ向かい香流川に近づいているという。 

家康「直政。陣立てを整えよ」 

井伊直政「はは。では急ぎ香流川を渡り、富士ヶ根に榊原殿、大須賀殿。仏ヶ根に某」

井伊直政がそこまで言ったところで家康が制す。

家康「ならぬ。康政の榊原隊も康高の大須賀隊も疲れ切っておる。池田、森はわしらだけで相対するのじゃ」 

家康本隊は香流川を渡り 井伊直政隊三〇〇〇は左備えとして仏ヶ根に、家康隊三三〇〇は前山に布陣、織田信雄隊三〇〇〇は家康の後ろに控えて後備えとした。


四月九日、朝、羽柴秀次隊の敗報が池田恒興のもとに届けられる。池田恒興は森長可とともに急ぎ北へと取って返す。

池田恒興は「秀次め、一時も持ち堪えられぬとは! どこに布陣していたのじゃ。物見を放ってはいなかったのか」と吐きすてる。 

池田恒興はまだあきらめてはいなかった。池田隊、森隊を合わせた九〇〇〇に堀秀政隊三〇〇〇と羽柴秀次隊の残りを足せば一万二千を超える。

しかし香流川に着いた池田恒興が見たものは、既に布陣を終えた徳川勢であった。堀隊の姿は無かった。 

森長可隊三〇〇〇は家康に向かい合う岐阜岳に、池田恒興の二子、元助と輝政隊四〇〇〇は井伊直政に対峙し、恒興は岐阜岳のそばの狭間に布陣する。 

池田隊は、井伊隊が布陣する仏ヶ根を攻略しようとするも銃撃が激しく、果たせなかった。

正午、家隊が布陣する前山を攻める森長可は眉間に銃弾を受け討ち死に。森隊は四散する。 

織田信雄「今が切所ぞ! すわ、攻めかかれ!」 

森隊が崩れたところへ織田信雄隊が押し出して行く。 

漫ろわしく見えて、時折さえている。かと思えば、やはり漫ろいでいる。家康は織田信雄を呆れ気味に見ていた。


池田恒興は弓を取って応戦するが、やがて矢が尽きる。徳川勢に取り囲まれ、槍を振るうも足に鉄砲傷を受けた。徳川勢はなおも押し寄せてくる。

池田恒興「もはやこれまでか。はっ。秀吉の毒気に当てられたか。柄にもない権道に手を出して、この様じゃ」 

池田恒興の首級は家康家臣、永井直勝が挙げ、長子の池田元助は同じく家康家臣の安藤直次に討ち取られた。

恒興の次子、池田輝政は逃げおおせ、難をまぬがれた。 

池田恒興隊、森長可隊を打ち破り、徳川・織田勢は小幡城に引き返していく。


秀吉のもとには徳川・織田勢が小牧山を出立し小幡城に入ったこと、次いで羽柴秀次隊の敗北が伝えられていた。秀吉は二万の軍勢を率いて出陣、竜泉寺砦に向かう。竜泉寺砦を固めれば家康は小牧山に帰れない。

小牧山城は大将不在で手薄になり、家康の方は堀、櫓の整わぬ小さな城に押し込められることになる。野戦に持ち込めば連戦に疲れた徳川・織田勢を易々と打ち破れるであろう。


秀吉率いる羽柴勢二万が南に向かう様子は小牧山城からも見て取れた。 

本多忠勝「左衛門尉(酒井忠次)殿! 羽柴勢が目の前を通るのを黙ってみて居られようか! 出陣の許可を!」

酒井忠次「うむ。しばし待て。各所から都合をつけ、兵を集めるゆえ」 

本多忠勝「それでは時がかかりすぎまする。おれの手勢五〇〇で打って出る」

酒井忠次「五〇〇じゃと?! お主の武辺はよく分かっておる。無謀なことは止めよ。せめて一〇〇〇は連れて行け」 

本多忠勝「いや五〇〇で参る。多すぎても少なすぎてもいかん。五〇〇でなくてはならぬのです」

酒井忠次「儂は殿よりこの城を預かっておる。信じてよいのじゃな」 

本多忠勝 「お任せあれ!」 

本多忠勝は与力の梶金平、河合又五郎ら五〇〇を引き連れ、小牧山城より打って出る。

本多忠勝は鹿の角を形取った鹿角脇立兜をかぶった。忠勝の与力、梶金平が出陣前に本多隊に申し渡す。梶金平「皆の者!習練どおりに動け!
陣鐘を聞き逃すな。陣鐘を聞いたら前隊は忠勝さまの前に、右隊は右に、左隊は左に、後隊は後ろにつけ」


南に向かう羽柴勢二万の右斜め後ろ、北西より本多忠勝郡隊は攻めかかった。

本多忠勝「本多忠勝推参! お相手いたす!」

羽柴秀吉の馬廻を率いる稲葉重通は言う。
稲葉重通「一〇〇〇にも満たぬ少勢ではないか。忠勝、己が武辺に驕ったか。思い知らせてくれる」

先手を取り、右斜め後ろから攻めかかった本多隊は羽柴勢を押しまくる。羽柴勢は縦に延びきり、向き直り隊列を整えるのに時を要した。 

稲葉重通「弓、番えい。放て!」 稲葉重通は足軽隊を叱咤し動揺を収めつつ、弓足軽に反撃を命じる。その時、陣瞳が響きわたった。

稲葉重通は目を疑った。押しまくっていたはずの本多隊は攻める手を止め、後ろに一間ほど下がる。

放った矢は本多隊がさっきまで攻めかかっていた場所に外れ、無駄矢となった。

稲葉重通「何事じゃ?!」

本多忠勝「ほれ、次はあっちを攻めよ」 
本多隊は右に一間進み、再び羽柴勢に攻めかかる。陣鐘が鳴る。また本多隊は攻め止め、一間下がる。鹿角脇立兜を目印に隊は整い、本多隊の陣形は一切、崩れなかった。

陣鐘が鳴るたび、本多隊は右へ左へ、時に左後ろ、右斜め前へと整然と動き、羽柴勢に攻めかかる。 

稲葉重通「ええい、まるで鰻を相手にしておるようじゃ!」

稲葉重通が隊列を整えたり、横矢を仕掛けようとすると、そのたび本多隊は別の場所に移動してしまう。 

本多忠勝 「ここら辺でよかろう。引き上げるぞ」 陣太鼓が鳴る。夕方になり本多隊は小牧山城に引き返していった。

河合又五郎「秀吉を手玉に取ってやりましたな。勝ち戦、祝着至極」

本多忠勝「ただ時を稼いだだけよ。勝ち戦でもなんでもない」

河合又五郎「初めの敵方の矢を避けた、あれはなぜ分かったのでございますか?」 

本多忠勝「あれは、こう、敵方の手前の方はざわざわとして、後ろの方は落ち着いていたから、何かあるのだろうと思ったのだ」

河合又五郎は舌を巻く。本多忠勝の独行、独得の感覚と思われた。


秀吉率いる羽柴勢が竜泉寺砦にたどり着いたころには日が暮れていた。徳川家康、織田信雄たちは既に小幡城に入り、夜には小幡城を出て小牧山城に退いてしまった。

秀吉は為すところ無く、楽田砦に戻るほかなかった。 

中入り隊のうち、池田恒興隊、森長可隊、羽柴秀次隊はことごとく打ち破られ、池田恒興、森長可は討ち死という惨憺たる結果であった。 

本陣に戻った秀吉はわなわなと震えていた。

秀吉「わしの策が、わやだわぁーーーっ!」 秀吉は床几を蹴り飛ばした。

怒気を帯び、荒く息を吐く秀吉はしばらくして呼吸を整える。

秀吉「佐吉を呼べ」 秀吉は小姓に命じる。 

程なく佐吉、元服して石田三成が本陣に参じる。石田三成「佐吉でございます」

秀吉は本陣の床に胡坐をかいて座っていた。

秀吉「来たか。佐吉よ。わしは楽市の、あの風情が好きでのう」秀吉は戦場の本陣にあって楽市の話をしはじめ、石田三成は黙ってそれを聞いていた。

秀吉「みな誰にはばかることなく商いが出来て、市には物があふれ、普段は買えぬ品、時には見たこともない品も並び、にぎやかで楽しげな声が飛び交う。わしはな、天下一円を楽市のごとくしたいのじゃ。佐吉、やれるか」

石田三成「腕が鳴りまする。万事、この佐吉にお任せくだされ」 石田三成は胸を張って答えた。


徳川・織田勢の本陣、小牧山城は半ばお祭り騒ぎのような活気であふれていた。三河中入りを仕掛けた池田恒興隊、森長可隊、羽柴秀次隊を打ち破り、本多忠勝は羽柴秀吉本隊に寡兵で果敢に挑んで一歩も退かず、三河武士の意地を示したと、いやが上にも気勢が上がる。

そんな中、本多正信は地図を前に浮かぬ顔をしていた。伊勢方面から報せが届いたのである。 長久手の戦いで秀次隊を破り、次いで池田隊、森隊を破ったその日、伊勢の松ヶ島城が陥落したという。

本多正信「半蔵殿。伊賀者はこれまで通り動けるであろうか?」

服部半蔵「ううむ。羽柴方の目をかいくぐって行き来せねばならぬ。これまでのように物や密書を自在に遣り取りできぬかもしれぬ」

さらに森長可は討ち死に、池田恒興が討ち取られたことが確実となる。 

本多正信は歯噛みして、言う「・・・・・・、秀吉のために厄介者をわざわざ除いてやったようなものではないか!」

正信は思い直した。

まだ越中の佐々成政がいる、根来衆、雑賀衆も健在、長宗我部元親の四国制覇は目前であろう、長宗我部勢が播磨、あるいは摂津に打ち入る準備が整う。
本多正信「何か計略はないか。策は」
夜もすがら、正信は地図を前に兵棋を動かし、策を思案していた。


天正十二年(1584) 小牧山城においては羽柴と徳川・織田双方決め手を欠き、睨み合いが続く。

美濃、伊勢、三河では羽柴方と徳川・織田方が小競り合いを繰り返す。

十一月、織田信雄は羽柴秀吉と講和し、徳川家康も三河に兵を引き上げる。 

天正十三年(1585) 三月、羽柴秀吉は紀州攻めを行い、根来衆、雑賀衆を屈服させる。六月には秀吉の弟、羽柴秀長を総大将とする羽柴勢十万が四国に打ち入り、長宗我部元親を降す。 

畿内につながる北陸道、中山道、東海道、山陰道、山陽道、南海道の過半をこちらが占め、秀吉に従う諸大名の離反を誘うのが本多正信の策であった。いまや、羽柴方であった山陰道、山陽道に加えて、北陸道、中山道も秀吉に押さえられ、南海道も制圧されてしまった。

残る東海道も南伊勢に羽柴方、蒲生氏郷が松ヶ島に十二万石で封じられた。

本多正信は地図を前にして、秀吉に時を与えすぎた、と思った。
無為に時を過ごす秀吉ではあるまい。秀吉がもたらす利に諸大名が引き寄せられるようになるであろう。本多正信「我が策、敗れたか」



天正十四年(1586)。桜は今が見ごろで、花びらがちらちらと舞う。

徳川家康と本多正信は馬に乗り、長良川を挟んで向こう岸を見ていた。一見すると、遠乗りのような風でもある。

家康「のう、正信」 正信「何でござる」 

家康「あんなところに城などあったかのう?」 

向こう岸には水堀、土塁が作られ、土塁の上には柵、櫓がいくつも建ち、屋敷も備えられていた。 

正信「いえ。秀吉の人足があまた送り込まれ、七日ほどで作事を終えてしまい申した。これをご覧下され」

正信は家康に一枚の絵図を渡す。伊賀者を介して、京にいる桂花から送られてきたものである。絵図には大坂城が描かれていた。
本丸はすでに完成し、二ノ丸の作事が始まっているようすが描かれていた。

正信「紀州攻め、四国攻めをやりながら、かような城まで建てるとは。秀吉の金蔵は底なしか」

正信は己の理財の才に関しては一廉のものがあると思っていた。
しかし、他の事ならいざ知らず、秀吉の桁外れの金策の才については到底およぶところではないと思われた。

家康はぽつりと言う「終わってしまったのかのう。わしの天下取り」 

正信「それがしは一縷の望みは残ったのではないかと思っております。三法師君、織田信雄殿を守り立て大軍を相手取って一歩も退かず、一矢を報いた。世の武士どもの琴線に触れるものだったのではないかと。このこと、一〇〇万貫でも引き換えられぬ値打ちがあると思っております」 

家康「わしが武士の鑑か。柄ではないのう」

正信「いえ、そこまでは言っておりませぬ」

家康「ただ武士の鑑というものは、もっと冴え冴えとぎらぎらとして、どこか儚げなものではあるまいか? かく言うわしもそのようなものに惹かれる心持ちがどこかにある。まこと武士とは度し難きものじゃ」

正信 「度し難きを度す。それも政かと。先ほど一縷の望みと申しましたが、あくまで一縷。
これをどう活かすかは殿次第でござる」 

家康「ふ。分かっておるわ」 

家康は馬銜をかえす。馬上の家康と正信は東に向かい、駆けていくのであった。(了)


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