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二次創作「いかにせむ彦五郎どの」(前編)

○天文の頃のこと
駿府の空は晴れやかである。南から北に潮の香りが吹き抜け、澄み渡った空に富士の山が見える。

今川館の中庭、塚原卜伝は木刀を八相に構えた。目の前には駿河の大名、今川義元が嫡男、今川氏真が正眼の構えを取っていた。

塚原卜伝は東下の途上、今川義元の招きに応じ駿府を訪れていた。義元は、よき折として家中の若い衆らへの稽古を求めていた。
ト伝「承りました。某も若人との試合は楽しゅうござる」
義元「ト伝殿が承知してくださった。 願い出る者はおらぬか?」 氏真が進み出る。
氏真 「父上、日頃の鍛錬の成果、ご覧あれ。ト伝殿、お頼み申します」

一間ほど離れてト伝と氏真は向かいあう。八相のト伝は氏真を見る。
美しい構えであった。 こ揺るぎもせず、 木刀が身体に対して正中していた。

ト伝が左肩に力を込めるやいなや、氏真はハッと踏み込み、 ト伝の左肩がけて木刀を打ち込む。打ち込んだと思ったが、氏真は薄絹がするすると抜けるような感覚に見舞われる。

ト伝は氏真の打ち込みを半身でかわすと、木刀を氏真の頸元へ振り下ろす。直に当てず、寸で止めるト伝。

義元「それまで。氏真。木刀が真剣であれば、そなたの首はとうに転がっておったな」

若い衆の中からひときわ大きな声があがる。
小原右衛門 「されど若様! 天下の大兵法者、 ト伝殿相手に堂々たる太刀筋にございます!」義元 「さあさあ、他に願い出る者はおらぬか?またとない機会ぞ」

互いに目配せするばかりの若い衆の奥の方から、 すうっと手が挙がった。
年のころは十二、三。 つるりとした顔立ちの者であった。

義元「殊勝なり、竹千代。しかとト伝殿に稽古を付けてもらえ」 竹千代「ははっ」

八相に構えるト伝。竹千代は木刀を右手に持ち、切っ先をだらんと下に向けている。強いて言えば無行の構えと見えなくもない。
ト伝も竹千代も全く動かず、向かい合ったままであった。

向かい合って一刻にもなろうか、となって卜伝は木刀を脇構えに持ち替え、 逆袈裟に切りかかる。 竹千代は右手の木刀を放り投げる。 放り投げた木刀は卜伝の木刀に当たった。

竹千代は前回りでころころと転がり、中庭の植え込みに身を潜めるのであった。

小原右衛門 「あっはっはっは!なんじゃ、あの様は!おまけに木刀を放り出すとは情けない!」

ト伝はふしを噛んだような顔で植え込みの方を見ていた。 竹千代は様子を窺ったのち、 植え込みから出てくる。

そんな竹千代に掛け寄る氏真 「竹千代。相手は世に聞こえた兵法者、塚原卜伝殿じゃ。気にするな」
竹千代 「もったいのうございます。 若様」
義元「他に稽古を願い出る者も居らぬようじゃ。 皆の者、下がってよいぞ。ト伝殿、粗餐を設えましたゆえ、奥へどうぞ」
ト伝 「かたじけない」

奥の間にて、海の幸、山の幸の膳が並び、ト伝は盃を傾ける。義元「ト伝殿。その、いかがであろう?氏真は・・・・・・」 
義元に問われ、盃を置く卜伝「はあ、さようですな。よく鍛錬しておられるかと。また、こう、構えから実直な人となりが」
義元「世辞はよい。兵法者としての見立てをお聞きしたい」
ト伝「然様ですか。それでは試合の時のことを。向かい合って氏真様からは打ち込む気迫、 必勝の気概をありありと感じましてございまする。されば某、左肩に力を込めました。すると氏真様は左肩めがけて打ち込まれた。力の元を叩けば相手を制することができる。道理にござる。ただ、某が左肩に力を込めたは、誘いにございます。そして氏真様はそのまま左肩めがけて打ち込まれた・・・・・・」

眉間にしわを寄せ、義元「・・・・・・然様か。氏真の他に稽古を願い出た者も居なかった。家中のこと、仕切り直さねばならぬか」
再び盃を取り、酒を一口飲み、ト伝「しかし、 竹千代殿?恥を忍んで申し上げる。この卜伝、不覚を取り申した」 
義元 「不覚?竹千代めを手もなくひねったではありませぬか」
ト伝「手も足も出なかったのでござる。失礼ながら氏真様は太刀筋を読めましてござる。しかし竹千代殿はそれが全く読めなかった。斬る気が有るのか無いのかすらわからず、某の方から手を出してしまい申した。竹千代殿が放り投げた木刀は某の木刀に当たり、次の一手が遅れ、その隙に竹千代殿は植え込みに逃げおおせた」義元「まさか・・・・・・。 たまさかのことでは?」 ト伝「然様ですかな?ふむ、すこし酒を過ごしてしまったやも知れませぬ」
夜は更けて、春先はいまだ肌寒であった。

駿府より東へ二十五里にあるのは北条氏康の居城、小田原城である。その一室で幻庵宗哲は書状の整理をしていた。そこへまだ髪削ぎ前のあどけない姫が飛び込んでくる。「大叔父さま!」 幻庵宗哲「これは栄姫(のちの早川殿様」
栄「大叔父さま。ひいおじい様のお話の続き、お聞かせください」侍女「栄姫さま。 お仕事の邪魔をなさってはいけませぬ」
幻庵宗哲「なんの、よい気晴らしじゃ。どこまで話しましたかな」栄「茶々丸を成敗したところまでです」 

幻庵宗哲の話に栄は聞き入っていた。

一段落し、 幻庵宗哲「この辺にしますかな。続きはまた次といたしましょう。それにしても栄姫様は我が父の武功話に興味がおありなのじゃな」
栄「大叔父様。ひいおじい様は、前は都でお勤めと聞きました。ということは、我が家は元々小田原の殿様ではなかったのですか? 他所の殿様もそうなのですか?」 

言葉に詰まる幻庵宗哲 「むむむむ」 侍女 「栄姫さま。 宗哲さまを困らせてはなりませぬ」 

幻庵宗哲は栄姫の頭をなでる。幻庵宗哲「いやいや。ものごとの成り立ちや来し方に思いをいたすのは悪いことではない。栄姫様のよい所じゃ。栄姫様。たくさん学び、のちたくさん考えなされ」

後日、今川義元は家臣たちと氏真の縁組を話し合っていた。北条家からは北条氏康の娘、栄姫を嫁がせたい、とのことだった。
朝比奈泰朝「氏康公の実の娘というのは申し分ないが。・・・・・・これはいかなる心積もりであるのか。末永く良しなに、ということなのか。はたまた、いつでも手切れとなる、ということなのか」
義元「いま北条と争っておっても、労多くして得る物は少ない。それよりは三河、尾張を切り取り力を蓄えるべきであろう」
居並ぶ家臣の中から一歩進み出る者がある。小原鎮実「慧眼かと存じます」 
朝比奈泰朝「控えよ! 小原! 外様の衆が口を挟むでない」朝比奈泰朝の一喝に、小原鎮実は平伏して末席に下がる。
義元「麻のごとく乱れる三河、尾張を切り従えるに時は要すまい。この縁談受けることとする」

栄姫が今川館、今川氏真の許に嫁ぐこととなる。輿入れに供奉する北条の家臣までも煌びやかな持ち道具を備え、列を成したという。
天文二十三年七月のことであった。

○永禄元年

氏真は文机の前に座り、時々何かを書き付けてはまた書物に目を落としているようであった。 いつも剣術の稽古をしている氏真が、今日は文机で何か書きものをしている。

栄「氏真さま?」栄が呼びかけるが返事もしない。氏真の後に近づく栄。氏真はまだ気がつかない。文机の上を覗き込むと、あれこれと書き込まれた半紙が散乱していた。
半紙の一枚を手に取る栄。氏真「あっ。わっ、奥? あっ! そ、それは!」
半紙を取り返そうとする氏真を、くるりと回ってかわす栄。
栄「あさましう うつくしさ添ふ 春の原 桃にも劣らじ 出で立つ御形 (ゴギョウ)。和歌を詠んでおられたのですね」
氏真は耳を赤くする「このようなところを。はあ・・・・・・、奥に見られるとは」
栄「御形の愛らしさは桃の花にも劣らぬ。よいではありませぬか。「もののあはれ」というものかと」
氏真「さ、然様かっ」
栄は氏真の耳元に小声で言う「然様にございます。 それに、お義父上の歌よりよっぽどお上手です」
笑みがこぼれる氏真 「はははっ。 奥め」

今川館に急ぎの知らせが届く。北三河、寺部城の鈴木重辰が叛し、尾張の織田信長に寝返ったという。朝比奈泰朝は顔を真っ赤にして「おのれ重辰。 忘恩の輩じゃ」 と吐きすてる。

今川義元「とはいえ、いま信長は守護代の伊勢守、 大和守両家と争うておる。尾張の国境、品野は我らが固めておる。寺部に手を出す余力は無いはずじゃ。こたびの調略、せいぜい嫌がらせぐらいのものであろう。ちょうどよい。竹千代の初陣としょう」 

竹千代は元服し、松平次郎三郎元康と名乗り、初陣となる寺部城攻めに赴くこととなる。

松平の御曹司の初陣とあって、松平家の旧臣らに参陣の下知が飛ぶ。本多俊正は米の雑炊を炊いていた。そこへ男がふらりと入ってくる。

俊正「どこに行っておった? 正信」
本多正信「ただいま戻りました。おっ、米の飯ではありませぬか!これはよいところに帰ってきた」正信はいそいそと鍋に近寄り、腕にたっぷりとよそう。
俊正「明日は松平の若殿さまの初陣じゃ。米の飯で力をつけておるのよ」松平の若殿、と聞き、正信はみるみる不機嫌になる。
正信「若殿さま?  ということは竹千代か!」正信は雑炊をがつがつとかき込む。

正信「駿府に留め置かれ、今川所縁の嫁を取り、三河の主とは名ばかり、すっかり今川の郎党ではないか!だいたい名も気に食わん!元康の元は今川義元の元じゃ。気に食わん! 父上!それがしは腿に鉄砲傷を受け申した故、参陣できませぬ、腿に鉄砲傷じゃ!」正信は雑炊を平らげると、寝床に行き、 掛け布を被って寝入ってしまう。

俊正「おい・・・・・・。しょうのないやつじゃ。戦に出る前から鉄砲傷をくらうものがあるか」


豊川、八名の西郷正勝には後備えとして参陣せよ、と命が下る。正勝は渋い顔をしていた 。

正勝「後備え、か。露払いとなるか、はたまた先手が攻めそこねた尻拭いか。そして一番槍は若殿様か取り巻きの手柄よ。ともかく、元正。 しかと留守居、任せたぞ」正勝は息子の元正にこぼしつつ、手勢を率いて寺部城へと向かった。 正勝は寺部城よりやや離れて陣をしいていた。 そこへつるりとした顔の若武者が訪れる。

松平次郎三郎「松平次郎三郎にございます。こたびの参陣、 痛み入りまする。若輩者ゆえなにとぞ、ご指導ご鞭撻の程、お頼み申します」
正勝 「これは。このような場末の陣所までお見舞い下さるとは、かたじけない」正勝はあっけに取られるばかりであった。

寺部城攻めが終わり、八名に戻ってきた正勝は元正の顔を見るやいなや、熱っぽく語り始める。
正勝「松平の若殿、中々の人物じゃ。わしの所にも挨拶に来たのじゃ。寺部の城攻めじゃが、 若殿は火攻めを仕掛けた。されどその時、風は東向きであった。やはりお若い、あれでは城は半分しか焼けぬと思った。ところが若殿は手勢を引きつれ城の後ろに回り込み、攻めかかったのじゃ。それでも回り込む手勢は、大勢引き連れては行けぬ。若殿はそこそこ攻めて、すぐに退き下がったようじゃ。しかし、その頃には火攻めの火が大手口の門も櫓もすっかり焼き払ってしもうた。我らは易々と城に踏み入り、大将を討ち取ったのじゃ。中々の戦上手じゃ。松平の若殿、期待できるかもしれぬぞ」

○永禄三年

今川義元は尾張の鳴海城、大高城を陥れ、蟹江、津島にも調略の手を伸ばしていた。このまま時が経てば、熱田湊は寂れるか今川方に寝返るほかはない。
そうはさせじと織田信長は鳴海、大高の周りに付け城を築き、抵抗していた。
織田信長は二年前まで実の弟と骨肉の争いを繰り広げ、守護代家や尾張守護との争いも絶えないという。織田信長に与する衆はどれほどあるものか。義元は二万の軍勢をもって尾張に出陣する。満を持しての出陣であった。

義元は鳴海城には岡部元信、大高城には鵜殿長照を守将として入れる。

織田方の付け城、 丸根砦、 鷲津砦の前に大高城は兵糧不足で苦しんでいた。
氏真は今川館に留まり、松平次郎三郎は織田方の付け城で締め上げられている大高城に兵糧を運び入れる命を受ける。

松平次郎三郎は三河衆を率い、井伊直盛隊と共に丸根砦に攻めかかった。丸根砦からは矢や石つぶてが雨あられと降りかかってくる。

酒井忠次「こ、これはいかん! 殿、お下がり下され。 殿?」次郎三郎は平然としていた。それどころか笑っているようであった。

次郎三郎「負け戦と定まった時は最早どうしようもない。敵が近づいてきたら教えてくれればよい」次郎三郎が踏みとどまっている間に小荷駄は大高城に入り、後ろを心配する必要がなくなった松平隊は丸根砦を陥落させる。

鷲津砦も陥落し、大高城への兵糧運び入れは首尾よく果たされた。
丸根、 鷲津が落ちたとの報告を受けた義元は大いに喜び、謡を三番うたわせた。


今川館に急報が届く。お味方総崩れ、井伊直盛 蒲原氏徳、朝比奈秀詮、三浦義就ら目ぼしい侍大将も討ち死にしたという。
氏真「ち、父上は?」伝令「未だ分かりませぬ」 氏真「何が起こっておるのじゃ」

上へ下へと混乱する今川館の廊下では小原鎮実が息子の右衛門に耳打ちしていた。

小原鎮実「せがれよ。これは好機じゃ。ここで大手柄を立てれば、我らのような外様の衆でも一足飛びに今川家の重臣に躍り出ることができる」


鳴海城の岡部元信は「今川義元、討ち死に」の報を受けていた。
さらに鳴海城は逃げ出す者も出る中、更なる手柄を欲する織田方の長谷川右近、加藤弥三郎、梶原七郎右衛門の手勢に取り囲まれていた。
元信は櫓から長谷川、加藤、梶原の手勢を物見して、それから城内を見て回った。

元信「傷を負っておらず、壮健な者を十人集めよ」壮健の足軽頭が十人集められた。
足軽頭「岡部殿。我らは敵陣に打って出て散々に切り結び、今川家の意地を存分に示すのですな」
元信「いや。そなたたちには別のことを頼みたい。深手を負って動けぬ者どもを守るのじゃ」深手の足軽たち「おありがとうごぜえます、岡部さま。戦の役に立てぬのにお気遣いくださり」
岡部元信の指示に落胆する足軽頭だったが、頼みにされて無下にもできなかった。


やがて長谷川、加藤、梶原らの手勢が鳴海城に迫る。
加藤弥三郎は長谷川の手勢を追い抜き、真っ先に攻めかかった。「加藤弥三郎、一番槍!」
元信「今じゃ!矢を放て、つぶてでも何でも投げよ」矢を射掛けられると加藤の手勢は蜘蛛の子を散らすように逃げ帰ってしまう。
加藤弥三郎「おい!お主ら!攻めぬか、止まらぬか」足軽らが逃げ、加藤弥三郎も逃げ帰るほかはなかった。
元信「よし!皆の者、二の丸まで下がれ!」元信は弓足軽らを二の丸まで下がらせた。

長谷川右近「敵は退いたぞ。 押し通れ!」長谷川右近の手勢は大手口を押し通り二の丸に攻めかかる。

虎口では長槍を構えた元信の手勢が待ち構えていた。 元信「者ども、突き刺すな。上から下へとぶっ叩け!」

長谷川の手勢は虎口を抜けず、 櫛の歯が抜けるように段々に動けなくなる者、逃げ出す者が続出する。長谷川右近「ここまでか。皆、退けー、退けー」

三番手に梶原七郎右衛門の手勢が矢束をもって仕寄せてくる。元信「やあやあ、我こそは今川家臣、岡部元信!いざ尋常に勝負!」
梶原七郎右衛門「おのれ・・・・・・。一騎打ちとは古めかしいやつ・・・・・・」
元信は手に持つ槍で突き立てるでもなし、梶原七郎右衛門の頭や上半身を執拗に打ち据える。 梶原七郎右衛門「く、くそっ。退け、退けー」梶原七郎右衛門が退いてしまい、梶原の手勢も退かざるを得なかった。

翌日、鳴海城に織田方から矢文が射掛けられる。城兵の命は助けるゆえ、鳴海城を引き渡すべし、と。
文を読み、元信「よし。鳴海城を引き渡す。また義元公が御首を返していただく」 
足軽頭「織田の手勢を存分に打ち破ったではありませぬか。まだまだ戦えますぞ」

元信「織田方、一番手の手勢は侍大将だけが逸り足軽たちは気迫がなかった、二番手の手勢は侍大将も足軽も疲れ切っていた、三番手の手勢は侍大将の方が及び腰であった。
そこで一番手は足軽を狙い撃ちし、二番手は攻め疲れるのを待った。三番手は侍大将を打ち据えて退かせた。
とはいえ、今の我らで織田の寄せ手を跳ね返せるのは一度きりじゃ。それに今川家の意地は示した。ゆるりと駿河に帰ろうぞ」

城を出た元信を出迎えたのは眼がらんらんとした中肉中背の大将であった。

元信「岡部元信にござる」

その大将は、かかと哄笑すると、元信の奮戦を称え二の腕のあたりをばしばしとたたく。

「織田上総介。信長じゃ。 岡部とやら、天晴れな戦いぶりじゃ、はっはっはっ」

信長の振る舞いに元信は目を丸くする。織田信長はうつけとの評判であった。

敵方の武将に旧知の友のような振る舞いをするのはうつけのような振る舞いかも知れぬが、この男、通り一遍のうつけではないのかも知れぬ。そう思う元信であった。

織田信長は約束どおり、攻めかかることなく義元の首も元信に引き渡した。 鳴海城を出る今川の兵たちを見て、信長は笑いながら「岡部とやら、 小憎らしいやつじゃ」 
木下藤吉郎 「どういうことでごぜえますか」
信長「深手の者を介抱している壮健の者らが十人ほど居ろう。しかもこちらを睨みつけておる。岡部とやら、こちらの寄せ手を三度も跳ね返したくせに、城内で最も壮健な者は取っておき、いざとなったらあの壮健の者らで乾坤一擲の勝負を仕掛けるつもりだったのだろう。小憎らしいやつじゃ」


今川義元、桶狭間にて織田信長に討たれる。知らせが今川館に続々と届けられる。「義元、討ち死に」の報はもはや疑いようもなかった。
悲嘆にくれる氏真「父上・・・・・・、おいたわしや」
小原右衛門「お館様落命、まことに無念。されど立ち止まっては居れませぬ。三河の国衆が動揺しておりましょう。氏真様が三河の国衆どもに、お館様のご威光を明らかにすべきかと」
氏真「さ、左様か。書状をつかわす。そうじゃ、次郎三郎は律義者。次郎三郎ならば三河を鎮めてくれよう」

氏真は松平次郎三郎に書状を送る。朝比奈親德らと相談し、三河に不埒者あらば、それを鎮め、駿府に参じよ。氏真はまた、東条吉良家の吉良義昭にも書状を送る。三河静謐を図り、よろしく御家来衆をまとめられよと。


松平次郎三郎は氏真からの書状を前に考え込んでいた。酒井忠次「不埒者を成敗し、駿府に参じよとの御下知ですな。さすれば何処から攻めましょうか」

次郎三郎「三河を鎮め、駿府に参じれば大手柄。氏真様もわしを相的には扱うまい。されど下知にしたがって三河の国衆を討って駿府に戻れば、祖父以来の松平の家臣らは二度とわしの許へは集うまい。・・・・・・。わしは決めたぞ。駿府には戻らぬ。岡崎城に入る」


○永禄四年
もともと今川家の支配を良しとせぬ三河の国衆は自立の動きを見せ始めていた。

西郷正勝、設楽貞通、菅沼定盈らは松平次郎三郎に、安祥松平家当主の名をもって今川方の国衆を討つべし、と盛んに働きかけていた。

氏真「西郷、設楽、菅沼らが不穏な動きをみせておるのか。このままでは吉良義昭殿、鵜殿長照、朝比奈親徳、次郎三郎らが西三河に取り残されてしまう」
小原鎮実「某を吉田城にお遣わしくだされ。西郷、設楽、菅沼らを鎮めてみせまする」
朝比奈泰朝「控えよ、小原!ここはこの泰朝にお任せを。不忠者どもは成敗いたす」

朝比奈泰朝は忠義に篤い者であったが、三河に遣れば国衆はなおのこと反発するように思われた。
氏真「泰朝は駿府を固めるべきであろう。ここは小原鎮実に任せる。帰参する者は許し、討つべき者は討て」
小原鎮実「ははーっ。ありがたき幸せ。某の働きにご期待くだされ」


小原鎮実は吉田城に赴くや打って出て、野田城を攻め落とし富永で菅沼定盈を打ち破る、西郷正勝・元正父子を討ち取り、設楽貞通、菅沼定盈らは居城を失い逃亡するに至った。

しかし小原鎮実はそれだけではなく西郷、設楽、 菅沼らの人質に加え、謀反が疑われる者の人質も処刑してしまう。

その報を聞いた氏真は「何じゃと?! 確か次郎三郎の家来衆と縁続きの者も居ったのではないか?」
小原右兵門はすかさず口をはさむ「叛意を抱く者が事を起こした後では遅うございます!これは一罰百戒というもの!皆、氏真様の威にひれ伏し、謀叛を企てようなどと考えぬことでしょう」
氏真「ううむ。左様か」


このときの松平次郎三郎の動きは奇妙であった。 西郷、設楽、菅沼らの求めに即応するでもなくぐずぐずしているかと思いきや、登屋ヶ根城、長沢城、ついでハツ面城、西条城を立て続けに攻め落とす。藤沢畷にて吉良勢を打ち破り、 東条城の吉良義昭も降伏に至る。今川館では西三河の情勢について対応を迫られることになった。

朝比奈泰朝「松平めが逆臣となったは疑いなし!「岡崎逆心」じゃ!」さらに松平勢は鵜殿長照が守る上之郷城を攻め始めていた。また落ち延びた菅沼定盈も再起の機会を狙い、豊川、東三河まで不穏な情勢となる。

氏真 「そんなはずはない。あの竹千代が、いや次郎三郎が。きっと今川に帰参するはずじゃ」小原右衛門「古来、帝王は巡行して下々の者にその威を示すもの、にございまする」 
朝比奈泰朝 「右衛門・・・・・・?何じゃ、 唐突に」氏真「・・・・・・、豊川、東三河は捨て置けぬ。余みずから手当てする。余が東三河に姿を現せば次郎三郎も分かってくれるはずじゃ」

怪訝な顔つきで朝比奈泰朝「上之郷の鵜殿長照殿を救うため後詰めを行う、ということでございますな?」
小原右衛門、氏真に「先代、義元公の如く寛仁大度を示すべきかと。妻子を返してやれば次郎三郎は感涙し、お館様に忠義を尽くすに違いありませぬ」
朝比奈泰朝「ばかな!虎に翼を与えるようなものじゃ!」
小原右衛門「義元公の策に倣うことでもありまする。松平の嫡男が国入りとなれば、烏合の衆の三河者は次郎三郎か嫡男かで割れるに相違ありませぬ。松平の家中が割れれば、こちらは如何様にもできまする」
氏真「泰朝には引き続き駿府でにらみを利かせてもらうとしよう。火急のことゆえ、岡部元信は精兵を選りすぐって集めよ」
一同「ははーっ」


大広間を出た朝比奈泰朝は憤慨していた。
朝比奈泰朝「右衛門、さかしらに口を出しおって!」
岡部元信は泰朝に問う 「して、こたびの戦さにて我らは何をいたすのでしょう? 鵜殿長照殿をお救いするのですか? 三河にお館様の武威を示すのでしょうか? 次郎三郎を説得して帰参させるのですか?」
朝比奈泰朝「知るか!右衛門に聞け!」


○永禄五年
氏真が軍勢を率いて今川館を出立する。しかし今川家は桶狭間での総崩れから未だ立ち直っておらず、まとまった数を集めることはできなかった。三河に入った氏真は設楽郡で抵抗を続ける菅沼定盈らを討つとの命を下す。 

岡部元信「真っ先に上之郷城に向かわぬのですか? 鵜殿長照殿はお館様の援軍を待ちわびておりましょう!」 
小原右衛門「いや鵜殿長照殿は勇将、万が一にも遅れをとることはありますまい。それよりも脇の備えを甘くして攻め進むことの方が剣呑にござる。桶狭間での総崩れのことをお忘れか?」
名こそ挙げぬものの今川義元の采配をくさすも同様である。 岡部元信 「この······っ!」
氏真「豊川、東三河を捨て置けぬ。長照は持ちこたえるはずじゃ。設楽に兵を向ける」

氏真率いる軍勢は北進して今川に反抗する者どもを鎮圧して回る。そのさなか、上之郷城が落城、鵜殿長照討ち死の報が届く。

氏真は小原右衛門に富永城攻略を任せると、急ぎ西に向かい今川方の牛久保城まで進むが、すでに手遅れであった。

牛久保城を牽制する松平方の砦、一宮砦を攻めるも疲れきった今川勢はてこずるあり様であった。松平次郎三郎は今川勢を一当てして下がらせると、一宮砦の松平勢を連れてさっと引き返してしまった。

氏真「あたら長照を死なせてしまった!これでは家中、国衆に面目が立たぬ!」
小原右衛門「鵜殿長照殿の二子、氏長殿、氏次殿は生きておられると聞いております。次郎三郎の妻、瀬名姫と息子と娘の三人と引き換えといたしましょう。氏長殿、氏次殿をお救いしたとなれば、後詰めは果たした、とも申せましょう!」
氏真「それしか手はないか・・・・・・」

鵜殿長照の二子と次郎三郎の妻、瀬名姫と息子と娘の三人の人質交換が行われることとなった。


西三河に松平次郎三郎の割拠を許し、東三河の騒乱は氏真みずから兵を出して収めねばならなかったが、小原鎮実が謀版を企てた西郷、設楽、菅沼を鎮圧し、野田城を攻略したことは事実であった。

氏真「小原鎮実。こたびの働きに思賞を取らせる」小原鎮実「某への恩賞は辞退いたしたく。 それよりもせがれをお引き立て下され」
氏真「では鎮実には引き続き吉田城を任せる。 右衛門は富永城を攻め落としたとのことであったな」小原右衛門「しかと」
氏真「三浦の分家の一つが絶家であった。右衛門にその三浦の名跡を継ぐことを許そう」
小原右衛門「ははー。ありがたき幸せ」
右衛門は小原を改め、三浦義鎮となる。

右衛門改め三浦義鎮は、富永城を攻略した、と言ったが、氏真が今川館に帰還すると松平勢は三河の、佐脇へ八幡へと押し出し富永城も奪還されてしまう。菅沼定盈は野田城を夜討ちし、 定盈が再び野田城に入ることとなる。豊川は再び不穏の形勢となってしまう。

この年の冬、井伊谷の国人、井伊直親に謀叛の疑いが掛けられ、ことの次第を今川館で詮議することとなる。
氏真「直親までもが? いや、しかし・・・・・・」朝比奈泰朝「小原、三浦右衛門めは壮語したくせに野田、富永は再び奪われ東三河はまた乱れてしまいもうした!ここは厳しく断せねば取り返しが付かなくなりますぞ」 
氏真「・・・・・・分かった。 直親を討て」

懸川まで来たところで井伊直親は朝比奈泰朝に襲殺されてしまった。井伊直親の男子はまだ幼く、代わって井伊直親の従姉妹、井伊直虎が井伊谷を領することになる。(後編につづく)

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