「知った」からには知ったなりの「責任」がある。

 今日は、認定特定非営利活動法人(認定NPO法人)Homedoor代表の川口加奈さんのご講演を聴きに行った。
 講演会の前にはその方がどんな思いで、どのような活動をしているのかをある程度調べてから行く。だから、講演会の内容はその復習みたいなものだったが、講演者を目の前にして話を聴くということに価値があると改めて思った。社会活動家の方々の言葉はときに自分が「気付いていない」こと、「何もしていない」ことを責められるように感じることがある。しかし、川口先生の言葉は彼女自身が「知らなかった」事実やホームレスの方々に対する当時の偏見や差別意識、過去のおっちゃん(ホームレスの方々のことを川口先生は「おっちゃん」と呼ぶ)とのエピソードを楽しそうにウキウキと話される。まるで、知らなかった世界を知ることの面白さを教えてくれているようだった。
 そんな川口先生の人柄がHomedoorというホームレスの方々が「オアシス」と公言する空間の雰囲気をつくるのだろうと思う。
 川口先生のお言葉で印象に残っているのが「『知った』からには知ったなりの『責任』がある」という言葉である。この言葉は私の中にすごく刺さった。

 大学院での1年目が終わろうとしている今、私は「知らなかった」ことをたくさん知った。その中には「知りたくなかった」ことや「知ったからといって何ができるのか」ということもある。でも、「知る」ことで何かが変わる。それは自分の意識にヒットするアンテナの本数でもあるし、見方の広がりでもある。今まで右から左に流れていた情報もキャッチできるようになるし、その情報も今までは一つの見方でしか捉えられていなかったけれど、色んな角度から物事を捉えられるようになっている。物事は見る角度によって様々な捉え方を可能にする。だから、見方の違う誰かと話すことは面白い。
 大学院に行った私だからこそできることがあるのではないか。最近、ものすごく考えている。でも、今日の川口先生は「知った」から「何かをすること=doing」を求めていたのだろうか。いや、そうではない。「知った」からこそ「being=心にとどめておくこと」ができるのではないかと言ってくれていたのではないか。心にとどめておく、忘れないでおくことだけで変わることがある。大学院に行って学んだからこそできる何かをするのではなく、どうありたいかにこだわった方がいいのではないか…という気もする。

 知らないことを知ることで人は今よりも少しやさしくなれると思う。なぜそう思うの?と聞かれると難しいが、今の時点で言葉にできることを残しておきたい。知ることは誰かを知ることであると思っている。どんな理論や知識、考え方もその根本には人がいる。そして、それらはその人が生きてきた背景や経験から生まれている。だから、何かを知ることは誰かを知ることなのではないかと思う。
 大学院で問題行動や不登校、貧困家庭、虐待などの当事者の方のお話を聴いたり、著書を読んだりして学べば学ぶほど、私に向かって暴言を吐いたり、睨んだりする子どもを悪いと思うことができなくなった。目の前の子どもがその言葉や行為にどんな思いを込めたのか、その背景に何があるのかと、子ども自身を分かりたいと思うことができるようになった。学ぶことで、知ることで以前の私よりもやさしくなれた。そして、大きく変わるような何かをすることはできなくても、知って心にとどめておくことで、きっと何か小さな変化は起きるはず。知らない自分よりも、誰かのために自分のためによりよく生きれるはず。だからこそ、私は学んで考え続けたい。

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