小学校ってやっぱり大事だよね

 最近、ずっと考えていることがある。小学校って色んな背景を持った人が集まる貴重な場所だよね…ってこと。もちろん、様々な学びの形態が生まれてきて、本当に学校・学級の中に多様性があるのかと言われたら、昔よりかは減っているかもしれないけれど、中学校や高校よりかは、様々な背景を持つ子どもたちが集められた場所なのではないかと思う。コロナ禍で他者と深くつながる機会が薄れただけでなく、SNSなどを通じて、自分が属するコミュニティを選べるようになったからこそ、異質な他者や異質な価値観に出合うためには、自分からその世界に入っていく勇気、言い換えると、「嫌われる勇気」が必要なのかなぁと思う。
 隣の友達との違いを知ることは、その違いを受けとめあい、分かりあおうとする気持ちを育てる上で、大切なスタートラインになるのではないかなと強く思う。そのように考えると、学校の中で「自分を語る」ことができる時間と空間がどのくらいあるのだろうと思う。私が思う「自分を語る」というのは、単に、「この問題の答えは~」というようなものではなくて、自分の育った環境や自分の中に抱えている葛藤や恥じらいも含めた気持ち、生きてきた歩みを誰かに話すということである。一人ひとりに物語があって、それを語る力や言葉を子どもたちは持っている。しかし、「自分を語る」ことのできる時間と空間をつくることは簡単ではない。子ども同士の人間関係や学級風土など、そのような時間と空間を阻害し得る要因を考えればきりがない。だけど、「語る」ことは「聴きあう」扉をノックする。語りあい、聴きあって初めて、分かりあおうとする土台に両者ともに立てるのではないかと思う。
 このようなことを考えていると、私は多様な他者や価値観と子どもとをつなげる架け橋になりたいと思った。しかし、そのような架け橋になるためには自分の知らない世界に飛び込んでいく勇気を私自身が持たないといけない気がする。人から嫌われたくない、できないやつだと思われたくない、そんな思いを常に持ち合わせながら人と関わっている私には少しばかり大きなハードルである。でも、その世界に入り込んでみないと分からないことがある。それは人間関係においても言えることで、他者に自分を語ってみないと始まらない関係性がある。その怖さや不安を乗り越えた先に見えるものがあるんじゃないかな。それらを経験を通して実感できたらいいな…。
 修論のテーマを何にするかと問われている今、修論を書き終えて資格を得ることが目的なのではなく、私が課題意識として持っていること、私だからこそできることにこだわって書き進めていければ幸せなのではないかと思う。時間があっという間に過ぎていく。でも、期限は自分で決められる。日々の瞬間瞬間を夢中で生きる。さあ、口角をあげて、今日も見たことのない世界に足を踏み入れることを楽しみながら、初めましての方々と出会ってこよう。


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