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人柄に文章があらわれる

文章に人柄があらわれる、と思ったエッセイ。
の、あとがき。
でも、人柄に、文章として書いていることが、
逆にあらわれていく「向き」もあるのかなと、
読んでいて思ったんです。

noteで毎日書いてるところに
自分があらわれてるんじゃなくって、
そこに書き出している文章が、
自分を、その人柄を創ってる気がします。

エッセイが得意ではありません。とエッセイ集の中で書くのは非常に心苦しいのですが(天ぷら屋さんに入ったら、店主が、「天ぷらを揚げるのは実は苦手なんだよね」と言ってくるようなものですから)、ただ、エッセイを書くことには後ろめたさを感じてしまうのは事実です

「3652」
伊坂幸太郎エッセイ集
伊坂幸太郎

得意じゃないと、ゆってしまう。

あとがきでそれをゆわれたら、
ここまで読んだのはなんだったんだ!
ってなります。
けど、そんなことないです、と
全力否定したくなる気持ちまで見据えて、
伊坂さんは、書かれたんだろうか。
いや、そうでないと思う。

純粋に、得意じゃないと書かれている。

天ぷらやの話とか、
うしろめたさ、て言う言葉とか、
そんなところに、人格が滲む。


もともと、餅は餅屋、と言いますか、小説を書く人は小説を書くことに専念して、その技術やら工夫の仕方を上達させていくべきで、たとえば、エッセイについては、エッセイの技術や工夫の仕方に時間を費やしている人が書くべきだろうな、という気持ちがあるのですが、それ以上に、僕自身が至って平凡な人間で、平凡な日々しか送っていないため、作り話以外のことで他人を楽しませる自信がないから、というのが大きな理由です。

同上


得意じゃない、って話が、まだ続きます笑
あとがき、なのに。あとがきだから、なのかな

「作り話以外のことで他人を楽しませる自信が
ない。」

というところに、作り話への自信が滲み出る。

平凡の自覚が、非凡をつくる。

「平凡な日常」が、人格をつくる。

ですので、エッセイの依頼をもらっても、なるべく引き受けないように、と考えているのですが、親しい編集者からの依頼には応えたいという思いもありますし、そのエッセイの企画意図によっては、やってみたいと感じることもあり、いや、たいがいは、編集者さんからの依頼が断れなかった、という理由からなのですが、ぽつぽつと引き受けてきました。

同上

得意じゃない
うしろめたい
引き受けたくない

ような受け入れがたいものさえも動かすのは、
親しい「人」というところに、
人間味を感じてしまう。

非凡な伊坂さんも、人なんだ。

人に言われたり、頼まれたり、
押し付けられたり、、みたいなときに、
断りがちな自分だけど。

「この人がそこまで言うのなら」
って、言われる人でありたい。

唐突に新井さんが、「エッセイ集ですが、どうせなら、デビュー作が発売された日と同じ日付(奥付)で発売することにします」と宣言しました。なるほどやはりエッセイ集を出すことになるのか、とそのあたりで自覚するようになり、同時に、「十周年だから」という名目があれば、苦手なエッセイをまとめることもいいかもしれないな、と思うようにもなりました。むしろ、十周年というタイミング (口実)を逃してしまえば、エッセイ集を出す気持ちにはなれないだろうとも分かりました。
というわけでできあがったのが、この本です。

同上

3652というこのエッセイのタイトルは、
なんで?と思っていましたが、
365✖️10年➕2日の閏年の日の分
だそうです。

そういう周年だから、
節目だから、っていう「時」は、
ときに後押しになる。

なんだかこれといって理由はないんだけど、
みずから節目にしちゃって、
〇〇記念日にしちゃうことで、
ためらいや、不安も、置いていける。

人と、時。

そこに動かされる伊坂さんの、
人柄は、この文章にあらわれている、
というよりも、
こういう文章、そして人と時、が、
人格をつくってこられたのかなって、思う。

すごい、勝手な妄想だけれど。

note書いててよかったなあ、と思う。

今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。

天ぷらの、中身が文章で、
衣が人格か。
衣が文章で、中身が人格か。
考えすぎて、
どっちか、わからんくなってきましたが、
どっちでもたぶんよくて、
両方合わせて、天ぷら。ってことで。

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