人柄に文章があらわれる
文章に人柄があらわれる、と思ったエッセイ。
の、あとがき。
でも、人柄に、文章として書いていることが、
逆にあらわれていく「向き」もあるのかなと、
読んでいて思ったんです。
noteで毎日書いてるところに
自分があらわれてるんじゃなくって、
そこに書き出している文章が、
自分を、その人柄を創ってる気がします。
得意じゃないと、ゆってしまう。
あとがきでそれをゆわれたら、
ここまで読んだのはなんだったんだ!
ってなります。
けど、そんなことないです、と
全力否定したくなる気持ちまで見据えて、
伊坂さんは、書かれたんだろうか。
いや、そうでないと思う。
純粋に、得意じゃないと書かれている。
天ぷらやの話とか、
うしろめたさ、て言う言葉とか、
そんなところに、人格が滲む。
得意じゃない、って話が、まだ続きます笑
あとがき、なのに。あとがきだから、なのかな
「作り話以外のことで他人を楽しませる自信が
ない。」
というところに、作り話への自信が滲み出る。
平凡の自覚が、非凡をつくる。
「平凡な日常」が、人格をつくる。
得意じゃない
うしろめたい
引き受けたくない
ような受け入れがたいものさえも動かすのは、
親しい「人」というところに、
人間味を感じてしまう。
非凡な伊坂さんも、人なんだ。
人に言われたり、頼まれたり、
押し付けられたり、、みたいなときに、
断りがちな自分だけど。
「この人がそこまで言うのなら」
って、言われる人でありたい。
3652というこのエッセイのタイトルは、
なんで?と思っていましたが、
365✖️10年➕2日の閏年の日の分
だそうです。
そういう周年だから、
節目だから、っていう「時」は、
ときに後押しになる。
なんだかこれといって理由はないんだけど、
みずから節目にしちゃって、
〇〇記念日にしちゃうことで、
ためらいや、不安も、置いていける。
人と、時。
そこに動かされる伊坂さんの、
人柄は、この文章にあらわれている、
というよりも、
こういう文章、そして人と時、が、
人格をつくってこられたのかなって、思う。
すごい、勝手な妄想だけれど。
note書いててよかったなあ、と思う。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます。
天ぷらの、中身が文章で、
衣が人格か。
衣が文章で、中身が人格か。
考えすぎて、
どっちか、わからんくなってきましたが、
どっちでもたぶんよくて、
両方合わせて、天ぷら。ってことで。
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