朝を生きる
生きていると、朝が来る。
「明るい日」と書いてあした。
夜の間の夢をひきずって、暗いままの
明る朝もあるというのに。
裸の柿の木は、明るさよりも暗さが滲んでいる
けれど、
風に揺れる、揺られることで生きているように
家の窓のうちから感じてるんだろうか。
首輪のない犬は生きている。
首輪のある犬も生きているけれど、
首輪のない犬が見えたのは、
首輪のないより自由な生を見たかったのかな。
寝そべっているだけでも生を感じられる
望みだったのか。
およそ80年の寿命のなかで、
いま42年生きた。と
自分起点では考えるのだけど、
前後200年のうちの80年。と考えると、
急に世の中のフィールドになって、
自分が存在しない時間が生まれる。
生まれる前と、生まれきった後で、
何が生まれたのかと、ふと思いを馳せる。
地上は、かけがえのない場所というよりは、
思いがけない場所、と思うとまた
見え方が変わってくる。
自分が卵だった。ということは忘れてる。
200年のうち、自分が生ききることや、
生ききった後のこと、つまり未来は考えるんだ
けど、過去はあまり考えない。
予習ばかりしているんだ。
過去を考えるだけでなくて、
復習、しっかり習うんだ。
何千億年の復習をしたら、どうなるのか。
きっと、予習ばかりしなくなる。
きっと、今日をもっと生きるようになる。
人間とは、何だと教わられたんだろう。
水ではなく、
水がすきとおっていること。
水には温度があって、冷たいこと。
魚も鳥も、人間にも、水が必要なこと。
奪い合うのではなく、分け合うこと。
水も生きていること。
殺されるかもしれないけものたちとも、
分けて生きていること。
人間とは、朝を知っている生き物。
朝を生きているんだ。
きょうもお付き合いくださり
ありがとうございます。
いつもどおり、通勤電車に揺られる朝だけど、
朝を自ら良く過ごせたら、いい1日になる、
気がした。
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