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それでも書いて生きていく


「物語」という暴力。「書く」という加害。

「書く仕事がしたい」佐藤友美さん


思考とは「気体」みたいなものだと思います。浮かんでは消えて、ふわふわしていて、つかまえどころがない。
それを目に見えるようにしたいと思ったら、私たちは口に出して話してみます。考えたことを、言葉にすることは、思考を「液体」化するようなものだと思います。

同上


思いついたこと、
思ったことは、次の瞬間忘れてしまいます。

吐く息のように目には見えず、
でも確かにそこにあった二酸化炭素は消える。
なので、二酸化炭素と名付けておいて、
どこかの木の葉が、水と光と混ざり合い、
酸素に変えてくれることで
どこかで循環していることになる。

それでも目には見えない。

思ったこと、
思いついたことはiPhoneのメモ機能に残すか
写真にとっておく。

口にのせた言葉は常に、流れ去って行く。その言葉が別の誰かに届くときには、また違った言葉になるし違った形になる。グラスが変われば形が変わる、やはり、液体みたいなものだなと感じます。
だから、流れていく思考をどこかに鍼でつなぎとめようとすると、やはり私たちは、文章を書くことになります。文章を書くことで、思考は一時的に固定されて「固体」になる。

同上


自分の思考であれ、誰かの思考であれ、固体になるとそれは人に差し出せるようになります。固体にするというのは、言い換えれば「物語化」することでもあります。物語化して固体になった文章は、時間も空間も超えて人に差し出せるようになります。

同上

メモや写真はnoteにする。
自分以外の、世界に時離れた瞬間に
気体は液体になる。


目に見えて、受け取り可能になる。
受け手によって違うし、
受け手の心身の状態によっても変化する。

それはまた、
書き手にとって
同じメモや写真など同じ元ネタでも、
10分後、60分後、
1晩寝かせた後だと変容しているから面白い。
「曇り空」をみて、
晴れから曇りならどんよりしたメタファーに。
なることもあれば、
雨が止んだ後なら、希望に向かう兆しにもなる。

水のような液体。

だから、鍼でつないでおく。
そして固体になる。

固体化は物語化!

物語は固体。まぎれもない事実。
メディアで、不意に口にしてしまった言葉、
SNSでのつぶやきは、固体化し、
切り取られ、またたくまに拡散する。
前後の物語さえ、気体になり消える。

それがたとえば、記事であり、コラムであり、書籍です。
誰かの漂う思考をつなぎとめて文章にしたい。
そして別の誰かに届けたい。

同上


でも、それらに臆して、気体に。
胸の内に留めておくことでは、
自分も世の中も変わらない。

気体のままの世の中の空気、閉塞感から、
固体にかえて、誰かに届ける、受け取る。

そんなふうに考えて書くことを続けてきました。
だけどときどき思うのは、この流れゆく言葉たちを、ほんとうにこの物語に押し込めて良いだろうか、ということです。
物語にするときにはいつもある種の暴力が働きます。

同上


ただ、固体には気をつける。

暴力とまで考えたことはなかった。

こう解釈したいと私が思った彼/彼女は、本当にそのストーリーを必要としていただろうか。本当はそこに静かに置かれただけの言葉を、勝手に線でつなぎデザイン処理しちゃってないだろうか。

同上

「解釈したい」って、
無意識に働いてるんです。
自分で気づいてない。

特にこうしていま、引用させていただいて
物語る解釈は、解釈すること自体が目的になり
やすい。

「勝手に線でつなぎ」
無限に自分の主張したい方向に
固体化する。それは暴力にもなりうる。


時に誰かを傷つけることも、
「スキの反対」になることも、
人知れずフォローしなくなることもある。

たいてい、
「いいね」に喜び舞い上がるのだけれど、
いいねへの感謝と、
よくないね、への受け止めと、
なんとも思わないけど、への想像力とを
気体、液体、固体化への過程で
忘れずにいたい。


そして、きょうも書き続ける。
きょうもお読みいただきありがとうございます

写真は、山奥のサッカーコートの時計。
誰もみない、見えない位置で、
きょうも時を刻んでいる。
だれかに何かを届けてる。


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