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「雨ニモマケズ」の続き

を、最後まで読んだのは生まれて初めて
(42年)でした。

きっかけは、
『居場所』大崎洋さん(吉本興業会長)を
読んで。

「世間」で言われることと、ご本人の言葉と
「両面」と「自分面」から物事を捉えたいな
と思いました。

(それはさておき。)

「ひとりぼっちの自分とうまくつきあいながら、なんとなく心の棲家をみつける」

僕がお伝えできるのは、せいぜいこのくらいでしょう。

『居場所』大崎洋さん



「ひとりぼっち」
どこか悲哀と覚悟を含んだこの言葉。

人はどこまで行っても、
死ぬ時も生まれる時も、ひとり。

「ぼっち」

には、寂しさと、強さがあります。

うまくつきあい「ながら」。

「ながら」生きてくことは、
「うまくいかずにつきあう」
こともひっくるめて、達観と道楽を
含んでいるような。

「なんとなく」

でいいよな。と思えてきます。

「せいぜい」

という厚かましくなさのような、
でもどこか厚かましいような。

引用されていたのはこちらでした。

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

「雨ニモマケズ」宮沢賢治さん より

「サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ」

なりたいな、と思いました。

「サウイフ」とは、

人起点ではなく、
自然起点の生き方。


で、気になったので全文読んでみました。

〔雨ニモマケズ〕

宮澤賢治




雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

「雨ニモマケズ」宮沢賢治さん

ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ


「自分を感情に入れた方がよい」
と思っていた最近でした。

が、入れずに、
「よく見聞きして分かり」

何を見聞きして、何をわかろうというのか?

自然であり、自分かな。

「自分のことを、感情を入れずに、
 よく見聞きする」

と、自分のことが分かるのかも。

「そして忘れず」

忘れます。自分をわかった気になっては、
忘れます。

だからnoteに書きます。
でも忘れます。

忘れてまた、振り出しに戻り、
「よく見聞きして分かり」

「ながら」
「なんとなく」
生きてゆく。

ホメラレモセズ
クニモサレズ

「苦にもされず」

これぞ、本望。

気にされず、苦にもされない
「ひとりぼっち」

それでいい。

そんな切なさと、力強さ。
生き抜く覚悟。


なんて、読み取りかたがあってるか
なんて、わからないんですが。

自分のことをよく見聞きしてわからせられる。

そんな物語。


「相互主観」という考え方

野中郁次郎先生は、こんなこともおっしゃっています。
「人間は、それぞれが別の主体でありながら、共感し合って、相互に了解し合う『みんなの主観🟰相互主観』をつくる」と。

白黒がはっきりしたネタって、全然面白くありません。
どこか曖昧で、どこか胡散臭くて、どこか意味がわからない。
そういうネタのほうが、案外いいオチに結びついて、笑いも取れたりするんですよ?

「居場所」大崎洋さん


noteはまるで、相互主観な世界。

みんなの主観でつくられている世界。

それでいい。


白黒はっきりされることが、
なんとなく、善な世界よりの世界で、

「曖昧で、胡散臭くて、意味がわからない」

ことに、意味を見出す社会で
あってほしいな。

そんな居場所を、だれもが持てる世界に。


きょうもお読みいただきありがとうございます

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