見出し画像

犬や猫は自分を映している


これまでどちらかと言えば、ペットの類いは苦手だった。たとえば訪ねた知り合いの家に犬や猫がいると、拒否反応は出ないものの、心のどこかでハズレ籤を引いたような気分になっていた。たぶん、目の前にいる犬や猫に、どう接すればいいのかが分からなかったのだと思う。

「作家と一日」吉田修一

分からないんですよ。
どう接すればいいのか、ほんとう。

近寄る
撫でる
可愛がる。

果たしてそれは客である私に求められてるのか
果たしてそれは犬や猫に求められているのか。

なんて、飼い主や犬や猫はなんとも思ってない
だろうに考え込んで悩んで、腰が浮く。

これは、人間にも同じことがいえて、
わたしカラオケが苦手なんですけど、

合いの手がいるのか
サビで一緒に熱唱するのか
歌い切れば拍手するのか
はたまた、次の選曲に分厚いリスト本を眺める
のか。聞いてるような聞いてないふりをして。

肘が浮く。

「別に接しなくていいんじゃない?」と当の飼い主は笑うだろうが、目の前に自分以外の他者がいて、完全無視できるほど冷たい人間ではないし、かといって、こっちがいくら気を遣ったところで、当然、相手は「いえいえ、お気遣いなく」と遠慮してくれることもない。結果、妙な距離感、妙な探り合いの時間だけが流れる。

同上

妙な空気を生むくらいなら、
行かない方がと思ってしまう。

妙な探り合いって、妙止まりなんですよね。
絶妙でも、微妙でもなく、奇妙なまま、
そこにたたずむお化けのように。

なんて、多くの人が気づいちゃいるけど、
別に取り立てて言わないようなところに、
目がついている吉田さんは巧妙なところを
突く。


初めて訪れてから三年連続で訪問したので、きっと気に入ったのだと思うのだが、自分が現実のパリを気に入ったのか、それともあまりにも”パリに似ているパリ"を気に入ったのか、未だに判然としない。

同上

パリはパリのようで、パリでない、
作られたパリにいる気もするけど、
ここまで来てパリじゃないことを、
認めたくもない。

自分は自分のようで、自分でない。
作られた自分といる気もするけど、
ここまで生きて自分じゃないことも
認めたくない。

のと似ている。

偶像はいつもアイドルで、
でも偶像でしかないのと似ている。

アイドルと握手しているようで、
偶像に見立てた自分と握手している。


凱旋門に近い路地裏の、とても小さな店だった。きっとマダムの人柄だと思うが、とてもリラックスできる雰囲気で、料理というものに物語があることを教えてくれるような店だった。

同上

料理というものに物語があるとは
どういうことなんだろう。

フランスのコース料理。
日本懐石。
家庭料理。

うん、なんとなくそんな気はするけど
そういうことでもない気がする。

食材や、食器。
包丁やまないたなどの調理器具でもない。

食卓には物語がある。

たとえ一人でも、二人でも、
四人でも、十人でも、そこに人がいて、
テーブルでもテラスでも、
食卓という場所に人がいて、
そこに料理があることで物語が生まれる。


もちろん一人旅も多いし、一人で歩き回ることが好きなので、大勢でいる人よりも話しかけられる機会は多いのだろうが、旅先で触れ合う一瞬というのは、なぜ日常の一瞬よりも強く印象に残るのだろうか。

同上

旅で触れ合う一瞬ではなく、
ここでは、「旅先」が似合う。

「出先」といえば、
電話に出られなくても許される瞬間がある。

「矛先」といわれたら、
悪くはないのに悪人になる瞬間がある。

日「常」ではなく、
旅「先」だから強く印象に残るのではないか。

初めての時、タクシーの窓から見たパリの風景ではないが、旅先での自分というのは、もしかすると、とても自分に似ている自分なのかもしれない。

同上


日常では気づかない自分も、
旅先では見つかる自分がいる。

それもまた自分の一であって、
虚像を映し出しているだけかも知れないけど、
自分という物語が浮かんでくる。

結局、犬や猫のせいにして、
居心地の悪い自分を映し出しているだけだった
のかもしれない。


今日もお付き合いくださり
ありがとうございます

ちなみに戌年生まれなんですが、
犬が好きなんですが、最近猫が好きな
自分に気づくことがあります。
飼わないけど。
変化することも、飼われることが嫌なことも、
ぜんぶ、犬や猫が映している。





この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?