犬や猫は自分を映している
分からないんですよ。
どう接すればいいのか、ほんとう。
近寄る
撫でる
可愛がる。
果たしてそれは客である私に求められてるのか
果たしてそれは犬や猫に求められているのか。
なんて、飼い主や犬や猫はなんとも思ってない
だろうに考え込んで悩んで、腰が浮く。
これは、人間にも同じことがいえて、
わたしカラオケが苦手なんですけど、
合いの手がいるのか
サビで一緒に熱唱するのか
歌い切れば拍手するのか
はたまた、次の選曲に分厚いリスト本を眺める
のか。聞いてるような聞いてないふりをして。
肘が浮く。
妙な空気を生むくらいなら、
行かない方がと思ってしまう。
妙な探り合いって、妙止まりなんですよね。
絶妙でも、微妙でもなく、奇妙なまま、
そこにたたずむお化けのように。
なんて、多くの人が気づいちゃいるけど、
別に取り立てて言わないようなところに、
目がついている吉田さんは巧妙なところを
突く。
パリはパリのようで、パリでない、
作られたパリにいる気もするけど、
ここまで来てパリじゃないことを、
認めたくもない。
自分は自分のようで、自分でない。
作られた自分といる気もするけど、
ここまで生きて自分じゃないことも
認めたくない。
のと似ている。
偶像はいつもアイドルで、
でも偶像でしかないのと似ている。
アイドルと握手しているようで、
偶像に見立てた自分と握手している。
料理というものに物語があるとは
どういうことなんだろう。
フランスのコース料理。
日本懐石。
家庭料理。
うん、なんとなくそんな気はするけど
そういうことでもない気がする。
食材や、食器。
包丁やまないたなどの調理器具でもない。
食卓には物語がある。
たとえ一人でも、二人でも、
四人でも、十人でも、そこに人がいて、
テーブルでもテラスでも、
食卓という場所に人がいて、
そこに料理があることで物語が生まれる。
旅で触れ合う一瞬ではなく、
ここでは、「旅先」が似合う。
「出先」といえば、
電話に出られなくても許される瞬間がある。
「矛先」といわれたら、
悪くはないのに悪人になる瞬間がある。
日「常」ではなく、
旅「先」だから強く印象に残るのではないか。
日常では気づかない自分も、
旅先では見つかる自分がいる。
それもまた自分の一であって、
虚像を映し出しているだけかも知れないけど、
自分という物語が浮かんでくる。
結局、犬や猫のせいにして、
居心地の悪い自分を映し出しているだけだった
のかもしれない。
今日もお付き合いくださり
ありがとうございます
ちなみに戌年生まれなんですが、
犬が好きなんですが、最近猫が好きな
自分に気づくことがあります。
飼わないけど。
変化することも、飼われることが嫌なことも、
ぜんぶ、犬や猫が映している。
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