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月や花の何を見ているか

月や花の何を見ているか

月を看るは、清気を観るなり。円滑晴翳の間に在らず。花を着るは、生意を観るなり、紅紫香臭の外に存す。
(後・140)

「最強の人生指南書 佐藤一斎「言志四録」を読む」
齋藤孝さん

月を見るのは、清らかな気を観賞するのであって、月の満ち欠けや、晴れたり、かげったりするのを見るのではない。花を見るのは、その生々とした花の心を観賞するのであって、紅や紫などの色とか、香りなどではない。

同上

私は
月の満ち欠けを見ていました。
月と雲の重なりによる美しさを見ていました。

花の色、形、香りを楽しんでいました。

それはそれで、
月も花も、心に余裕がないと見れないので、
月や花を、眺めている自分がいること自体に、
心の落ち着きを感じていました。

だから、満ち欠けや色かたちで、いいんです。

が、

「清らかな気を観賞する」
「花の心を観賞する」

と言われると、そうしてみたくもなります

スピリチュアルな心の話というよりは、
思考の話な気がしてきます。

月は、なんのためにあるのか?
花は、だれのためにあるのか?

みんなに平等にある、
この月や花を、
自分がどのように捉えるかによって、
暮らしが変わります。

月を見るときには、丸くなったり欠けたり、晴れたり陰ったりするのを見るのではなく、月の清らかな気を観賞するのだ。
この言葉を聞いて私は、昔の人がなぜあれほど月を観賞したのかが理解できました。
昔の人たちは、月を観察するために見ていたのではなく、月を見ることで、月だけが持っ独特な清らかさに自分の心を同化させ、清めていたのです。

同上

観察するためではなく、
自分の心と同化させ、清めるため。

月と向かい合うのではなく、
月と向かい合う自分と向き合う感じ。

ああ、格別にきれいだな、
と感じている自分自身の清らかさを
感じること。

ただ、見るのではなく、見た先に自分を見る
という思考、心の持ち方は、
月にも花にも、太陽や海にも、
あるいは「人」と向き合うときにも、
同じことが言えそうです。

「うつくしいものを、美しいと思える
あなたのこころがうつくしい」

相田みつをさん

今日もお読みいただきありがとうございます


きのうからきょうと、38度近くの熱がでました
5、6年ぶりの発熱にたじろぎましたが、
体調をくずすと、自分の心の置き所まで、
不安定になるなあと痛感。

月を見て花を見て、心整えます。

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