「文は人なり」
犬は文章を書かない、のではなくて、
文章は人そのもの。
本を読んでるときは気づかなかったけど、
文を書くようになってなんとなくわかる。
ただ、滲み出ているけれど、
出てしまわないといけない次元までは遠い。
とはいえ、その「出してない」と自覚している
ことの中にこそ人があると思う。
もしくは自覚さえしてないことの中に。
noteで
書いてない性格→暴君で傲慢。気性の激しさ。
書いてない感情→憎しみ、苛立ち、悲しみ。
おっちょこちょい→チャックがあきがち。
と書いてみて気づくことは、不だ。
正であり、清であり、静でありは、
書いているし書きやすいが、
自分や社会の「不」を置き去りにしているので
「文が人」でないし
「人が文」に至っていない。
とも思ったが、それもまた
違う。いやそれだけでは不足してそうだ。
すべて正だ。正義だ。
不をひけらかす必要は、なさそうだ。
生活でしか書けない。
毎日、文字通り必死だ。
冷や汗ばかりだ。
悪意はない。
自分を憐れみがちなのは、他者を憐れむからだ
お人よしがすぎる。
ただ、人を騙さないが、自分を騙している。
ここだ!
自分を騙さないことが、文が人になるのかも。
怒りは不だ。
不平不満不安を、「義」に従って書き出すのは
文であっても、人ではない。
正義は、伝わらないことが、悲しいかな多い。
それは怒りが起点であり、終点だから。
起点は自分でも、終点は人。
共感の時代と言われて久しい。
共感するのは、近しい経験、近しい価値観、
近しい課題感を持つ人たちであって、
それもまた尊いことだけれど。
共感し得ない人、関心のない人に、
いかに届けるか?届くか。
それは、不ではないんだろうな。
対岸に届くのは、可だ。
不可能を可能にしていく夢があるか。
託したくなる、または共に行きたくなる
景色があるか。
おもしろいことを、可能にしていく人。
おもしろくないことを、発見して、
おもしろいことに、点火していく人。
それがライター。lighter。
起点がもう、おもしろい。
世の中は、おもしろくない。
生きるに値しない、ことがあたりまえ。
びっくり!
だけど、共感した。
生きるに値するおもしろみは有難いことなんだ
不安でも不満でもなく、ファン。
表現様様。
おもしろい世に、おもしろいことも、
凝らした表現も、生まれない。
生まれたのはおもしろくない世で、
おもしろきを可にしていく人たち、
ライターが、夢を見せてくれる。
そんな一人に、いつかなりたい。
文が人になりたい。
今日もお付き合いくださりありがとう
ございます。
いつもの通勤路は鳥を見ていたし
太陽をみていたけど、そこには橋があった。
対岸をつなぐ橋。
とまり木になる橋。
そんな橋になりたい。