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演じる


上司を演じる
父親を演じる
義理の息子を演じる
子供を演じる
先輩を、後輩を演じる

いつも誰かが、誰かを演じる

一億総役者。

いい部下を演じる
いい父親を演じる
いい義理の息子を演じる
いい子供を演じる
いい先輩、いい後輩を演じる

相手に合わせて、自分を偽る

偽ってなんかない!

と思うのは、自分を守りたいから。
そして、相手を守りたいから。

そうしているうちに、
本当の自分を見失う。

演じているうちに、
それ自体が、自分になっていく。

望むと望まざると。
演じることが善であれ悪であれ、
自分になっていく。

それ自体が、自然体となってゆく
つもりが、自然体でもなくなってゆく。

そうしているうちにまた、
自分を見失う。

本当の自分が、どれか、わからなくなる。
そして、どれもが自分になってゆく。

そんなもんだ。

否定もせず、
べき論でも語らず、
ありのままの自分のようで
ありのままでも、ないようで、
それでも自分。

いま、ここ、自分。

それでいいじゃない。

だれからも否定される権利はなく、
自分で選んだ道だから。

なんのために、演じてるのか?

わからなくなる。

演じてるわけではなくて、
そのどれもが自分でもある。

「自分学者」

と、後輩に言われた。

それでいいじゃない。
自分に、合ってるんならそれで。

結局、
オギャー、と生まれてから、
息を引き取るまで、

その瞬間その瞬間、
その場その場。
あるいは、
ある一定期間で、

わたしはあなたになってゆく。

あなたはわたしになってゆく。


演じるのを、やめよう。
いや、やめれない。
なぜなら、自分はわからないから。

そしたら、それを、受け入れよう。

そうして、自分になってゆく。


「演」・・・「水」の字形はさざなみやながれをあらわしたしょうけいもじからうまれました。水を意味するさんずいはそのはせうけいです。漢字にさんずいが使われる場合、何らかの形で水に関する意味をたくされていることになります。さんずいと という文字からなる

subsites.icu.ac.jp

「演」。「この 」はもともと両手で矢竹の曲がりをまっすぐにのばす形をあらわした象形文字。だから「演」の本来の意味は「長くまっすぐにのびた水、つまり、長い川」だったのです。それがてんじて「のびる」や「演技」「講演」などに見られる、「徐々に事が展開され、行われる」という意味の現在の意味になりました。「講演」と「講義」はよくにたじゅくごですが、師が生徒へきっちり教えを授ける「講義」にくらべ、「講演」のほうには何か聴衆の反応をみながら話の内容を臨機応変に変えるといった感じがしなくもないと思いませんか

同上

「水は方円の器に従う」という言葉がありますが、「講演」の字の姿にそんな柔軟なニュアンスを見るのは早計に過ぎるでしょうか。熟語の成立の陰にも水に対する人間の確かなイメージが息づいているような気がします。

同上


長く真っ直ぐにのびた水。つまり川。

これで、しっくりくる。

川は淀みがなく、絶えずながら続ける。
「川の流れに身を任せ」
きょうも、「演じて」かいてゆく。

今日もお読みいただきありがとうございます

少なくとも、
自分の人生の主役は、自分が演者でありたい
です。縁者とともに。

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