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「好奇心」


うちの子が、車の中から見える、
フロントガラスに弾かれる雨を見て

「雨がおどってる」

と言った。

ダンシングレイン。

その感性は豊か。
幼少期のこどもの
好奇心は休まることを知らない。

ハート型のリボンをつけている。らしい

お昼ご飯は、天丼・天ぷら本舗
さん天さん。にいきました。

左上の刺さっているものは何に見えますか。

大人は、
「え、海老天の、尻尾でしょ」
と思うと思うんですが、
(または結論づける)

こんどは、うちの子どもによると、

「あたまにリボンついてる」。
「ハートになってるねん」と。

多少の推理や推測をする場面でも、
その周りの付随する情報から、
「コレだ!」と決めがちならまだしも、
「以上、おわり、思考停止」
になりがちだなあ、と。

子どもに気づかされる。
面白い!

朝の習慣になっている
4時におきてマクド、にいく道すがら
たまたまやっていたNHKの番組で、
「宗教リテラシー」についての
討論会のようなものをしていたんです。

そこで、興味深い話があって。

「日本では、好奇心は良いものとして、
語られるけど、そうではないという論もある」
と。


ハンナアーレントという哲学者の
方の論だそうですが、その一節がこちらにも
ありました。

この「好奇心」は、世界への従属が言わば習慣化した状態を表わすと同時に、他方「自己自身から」分離して生き、自己自身を回避して生きようとする人間的なものに固有の不確かさと虚しさを示すものにほかならない。自己自身の前でのこのような逃避に対して、アウグスティヌスは、「“自己探求”」を対峙させた。(『アウグスティヌスの愛の概念』)

上記より

一見して読み解ききれは私はしないのですが、
こんなふうに読んでみました。

好奇心は、
世界、自然、人との関わりの中で、
自分が一つになって、抱く視点や気持ち。
関心ごと。

とくに子どもは、その境界線が、
いい意味で、あまり無いために、
あまりにも自然に、今風に言えば
シームレスに見ることができる。
感じられる。

同時に、
この、「自分とは切り離す」と言う部分。
ここは、大人になると、
切り離して考えることができるために、
好奇心ゆえの、発想や気づきは
少なくなるのかな。

また、
「好奇」には、「好奇の目」というものがある

そして、そう語られる時には、
「好奇心」とは逆の、ネガティブな意味になる

とくに、
昨今の、怪奇だったり、
「ふつう」の感覚では、ありえない、
と思われるような事件や事象に対して、
「好奇」なものとして、
どこか自分とは切り離したところに
関係ないものとして、
批判したり、中傷したりするような
ことが起きる。

そんなことへの警鐘のように思えました。

子どもの好奇心と、
大人の好奇心や好奇、とひとくくりに
してはいけないけれど。

noteを書き始めて、

いろんなことに好奇心をもって、
まるで童心のように観察したり、
感じとり、言葉にすることを楽しむことが
増えましたが、その反面、

「自分と対象」を、
別物にせず、自分の中で、
よく噛んで、よく飲み込んで、
言葉にしていくことは大切にしたいなと
思います。

今日もお読みいただきありがとうございます

写真は、昨日の雨の中見つけた花、
そして不思議な丸い群れ!

好奇心は、やまない。
やまないけれど、ちゃんと知る努めを
忘れずにいたいです。
最近は、Googleレンズ、で撮影すると、
これが何か?をすぐ教えてくれるので、
はまってます。

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