呪われた幸福定義

小さな田舎の地方都市とは言え、その街でそこそこの名士と言われる家に生まれた僕は、ある種の呪縛を背負った気がする。それは、自分一人では幸せが成立しないということだ。
小さい頃から「自分や自分の家族だけでなく、人のために、生まれた故郷のために生きてこそ、素晴らしく尊い人生だ」と教えられ育ってきた。
多くの家庭では、「いい学校に行きなさい、いい会社に勤めなさい、いい仕事に就きなさい」という教えがある。これはやっぱり外へ出て働いて、(究極は)より稼げという事なんだと思う。そうハッキリお金の話はしないが、結局は自らが豊かになるために、良い学校、良い会社に行けってことなんだ。
僕の家では、こうした教えは一切無かった。地元に戻り家業を継ぐ、そこでより多くの人を豊かにし養うという目的がある限り、その教えにはたどり着かない。
これが一種の呪いだと思う。
自分が何に興味があるか、何を手に入れたいかを考えることは許されず、常に周囲が自分に求めていることをやれば喜ばれた。自己実現や自分に何かを与えることで幸せになれない。自分以外の誰かが満足し幸せな姿を見て初めて自分は幸せを感じられる。むしろ、それでしか幸せを感じられない性格になってしまった。

しかし、最近はずっと満たされなかった。

どれだけ期待に応えようと努力しても、不満足そうな父。地元に帰り家業を手伝っていても、僕がゲイであるが故に「不幸せだ」と言う母。不貞行為を働き、自業自得なのに反省もせず益々問題を引き起こす姉と甥姪の面倒。家族の要求は止まらない。
好きでもない家業を継がされる息子にとって、その事業自体に情熱は感じない。親や先祖が始めたことだから、当然のことである。ただ、社員さんや家族が喜んでくれること、自分に向き合ってくれること、僕の存在を認めてくれることがモチベーションとなる。しかし、現実はほぼ逆だ。
そこそこに認められた幹部社員であるほど、僕を疎ましく思い、情報網から外し、孤立させる。それは他人の喜びを絶対条件とする幸福定義を持つ僕にとって、自らの生まれてきた意味さえ失わせる行為だ。
ここ数年は意見もせず、ひたすら下手に丁重に誠意を持って接してきた、家族にも、会社にも。しかし、彼らが僕に満足することは無かった。むしろ、不幸の因子であるかのような扱いだった。

この呪われた幸福定義。
僕は最近恨めしくてならない。
他人はどうあれ、自分を自分で満たす方法は?
自分を幸せにする方法は?本当に大切なものは?
その答えが見つかればどれほど楽だろう。
しばらく、自分を満たす時間が欲しい。
そう強く感じるのだった。

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