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『露草』


一九三九年九月七日、親友で小説家の泉鏡花が亡くなった。鏡花が亡くなった日、その日はいつも通りに過ぎるのだと私━小村雪岱は思っていた。鏡花の弟子━里見君から、連絡を受けるまでは。


「小村さん、鏡花先生が危篤状態なんです。早く、早く来て下さい!」
その日の昼頃、里見君から連絡が来た。連絡を受け、私はすぐさま家を飛び出し、鏡花の元へ早馬の如く急いだ。どうか、どうか、まだ鏡花が生きていますように、と願いながら。

鏡花の家に辿り着いた時には、汗で着物がびしょびしょに濡れていた。「ごめんください」とも言わず、ガラリ、と引き戸を開け、勝手に家に上がる。すると、玄関にひょこり、と鏡花の妻━すずさんが顔を出した。
「小村さん!」
息を切らしている私を心配したのか、すぐに駆け寄って来る。
「お水でも持ってきましょうか?」
そう気遣ってくれた。けれど、自分の事はどうでも良い。私は、ぜいぜい言いながら、
「き、鏡花は……」
と鏡花の居場所を聞いた。
「主人なら、そこの部屋に」
「あり、が、とう」
居場所を聞き、鏡花の元へと急ぐ。
「小村さん、お水は……」
すずさんのその声は耳に入らなかった。わざわざ、すずさんが気遣ってお水を部屋まで持ってきてくれたのは、このニ、三分後のことである。

すずさんの気遣いを無視し、部屋に入ると、鏡花、医者、里見君、他、顔見知りが三人ほどいた。里見君は弱々しい鏡花の手をしっかりと握っている。
「あ、小村さん」
私に気付き、振り返った里見君の瞳はわずかに涙で潤っていた。鏡花の容態が芳しくないことは、聞かなくても、一目見ただけで分かる。とても浅く短い息、青白い顔。その姿はふっ、と一息かけただけで崩れ、壊れてしまいそうな薄氷のようだった。この場にいた全員が鏡花にまだ生きて欲しい、と願っただろう。だが、誰であろうと、寿命という運命には逆らえない。それは、鏡花も同じだった。

チク、タク、チク、タク。
医者が右手で鏡花の手首の脈を測りながら、左手で懐中時計を懐から取り出す。
チク、タク、チク、タク。
懐中時計が正確に時を刻む。秒針が無情に刻むその音がやけに耳障りに感じ、苛立ちを覚える。
しばらくして、医者は静かに告げた。
「ご臨終です」
医者が告げたと同時に、部屋にいた皆が泣き始める。私は、悲しさと喪失感でぐちゃぐちゃになった。冷たくなった鏡花の手を取る。さすっても、ぎゅっ、と私の手で包んでも、再びその手が温かくなることはなかった。

午後三時、皆も落ち着きを取り戻し始めた頃。一人の男が私より息を切らして、鏡花を訪ねてきた。鏡花と同じ尾崎一門であり、弟弟子の徳田秋聲である。
「鏡、花は、ど、う……」
里見君が玄関まで出てきて、涙で腫らした顔で答える。
「たった今……」
亡くなられました、そう続けずとも理解したのだろう。徳田は大声で怒鳴った。
「駄目じゃあないか、こんな時分に知らせてくれたって!」
息を切らしたまま怒鳴ったからなのか、声はわずかにかすれている。怒鳴った後、どんどん徳田の顔は歪み、しまいには、大粒の涙を溢しながら泣き出してしまった。里見君は、申し訳なさそうに少しうつむいてから、
「どうも、すみませんでした」
と、すっと頭を下げた。私は、というと何も言わず、否、何も言えずその場を黙って去った。


慌ただしい日々の中、通夜、葬儀、納骨、四十九日を里見君や徳田などと進めていった。特に通夜と葬儀は人が多く、忙しかった。人の多さが、忙しさが、どれだけ鏡花の名が世に知れ渡っているか、を私に見せつけるようだった。それに比べ、私は、そんな有名人の本の表紙絵、挿絵を手がける平々凡々なただの画家である。鏡花と出会って、共に仕事をこなしていったことは、全て都合の良い夢物語だったのではないか、と感じた。

そうこうしているうちに、四十九日が終わり、三ヶ月が過ぎ、今に至る。亡くなってからもう三ヶ月が経ったのか、と考えると、時が過ぎるのは早いな、と思った。そして今日、すずさんから葬儀などの返礼として、鏡花が病に伏してからずっと枕元に置いていたという手文庫を頂いた。
手文庫の中には、一冊の手帳が入っていた。
「これはさすがに受けとれません。お返しいたします。」
いくらなんでも、私ごときが鏡花の手帳まで頂くというのは、荷が重い。私はそう言って、断ろうとした。だが、すずさんは手帳を私の手に握らせた。
「小村さんだから、渡すんですよ。どうか、持っていて下さいな。私が持っていても、どうせ主人の事を思い出して、泣いてしまうだけですし。主人も、小村さんが持っていた方が喜ぶと思うんです。」
すずさんは見かけの愛らしさと異なり、意外と頑固である。それを思い知らされるほどの意思の固さだった。しばらく問答を続け、結局、私が折れて手文庫を家へ持ち帰った。

手文庫は何の装飾もない、淡白な小箱であった。手帳の方は、手帳というより時々その日の出来事が記されている、日記のようなものである。最後のページには鉛筆で、
「露草や赤のまんまもなつかしき」
という句が書かれていた。露草はおそらく、病で動けない鏡花を思って、すずさんが庭から採ってきたものであろう。句を詠むほど嬉しかったんだな、と思った。

その夜、私はアルコールランプに火を灯して手帳を読んでみることにした。アルコールのつんとした独特な香りが、鏡花を思い出させる。なぜ、鏡花を思い出させるのか。それは鏡花が、極度の潔癖症であったからである。外出時でも、アルコールランプを持ち歩き、すでに焼かれている食べ物でも、気が済むまで炙り、酒などの飲み物は沸騰させてから口にしていた。懐かしいな、と思い出に浸る。

その時、背後から声が聞こえたような気がした。部屋には、私一人しかいないはずなのに、だ。
「何をしているんです?」
今度ははっきりと聞こえた。どこかで聞いたことのある、男の声だった。ちなみに家族の声ではない。そもそも家族は、この時間だと布団の中で、すよすよ、と眠っているはずである。では、盗人か。これも違うだろう。盗人であるならば、このような真似は決してしない。つまり、今、私の背後にいるのは、生きてる人ではない、存在。幽霊や妖怪などといった類のものだろう。より一層、アルコールの香りが濃くなった。

男の問いに答えず、黙る。恐怖心と焦りでそれ以外の妥協策は思い付かなかった。黙りこんでいると、ぬぅっ、と後ろから腕が延びてきた。青白い、死人のような腕である。ますます恐怖心が増し、逃げ出す勇気は恐怖心に埋もれる。動けない中、次は耳元で声が聞こえた。
「あ、これ、私の手帳じゃあないですか」
「ひえっ」
思わず、変な声が出る。私は腕を押し退けて、ばっと後ろを振り返った。

そこにいたのは、やはり男であった。丸い眼鏡をかけた童顔、死んだはずの鏡花である。
「痛っ。雪岱、痛いですよ。幽霊だからといって、乱暴しないでください」
「き、きき鏡花?!」
夜中だというのに、私は声を荒げてしまった。
「鏡花ですが……、その声の音量はなんとかなりませんか。夜もふけているのだから、もう少し静かに」
「あ、はい……」
鏡花に注意され、大人しく声の音量を下げる。

「驚いたよ…、本当に幽霊は存在したんだな」
「ええ、そうですね。僕も本当に存在するとは思っていませんでした」
「幽霊が存在するということは、天国や地獄も存在するのかい?」
「存在しますね。でも、天国は皆のいう“楽園”のような場所ではありません。現世と同じ感じです。家も商店街もあります」
その答えに私は衝撃を受けた。天国と言えば、酒や煙草、菓子などの嗜好品とか、美女に囲まれて生活を送ることができるのだと思っていた。少し残念である。
「地獄は?」
「僕は残念ながら、無縁なので行ったことはありませんが、話を聞いたことはあります。生前、命を奪うといった重い罪を犯した者だけが行くらしいですよ」
「へぇ…」
「鬼が毎日、罪人を追いかけ回してるだとか。本当の“鬼ごっこ”が繰り広げられてるそうです」
「本当の“鬼ごっこ”……」
想像するだけでゾッとする。地獄は現世とかけ離れた存在なのだろう。私は、今からでも人の為になることをしよう、と心に決めた。

「まぁ、雪岱は大丈夫だと思いますけどね。そういえば、」
ふわり、とアルコールランプの火が揺らい
だ。
「すずは元気にしてますか」
ちょぴり恥ずかしげに、頰を赤くする鏡花。私はふっと微笑んで、
「元気だよ。病気もしてない」
と言った。
「良かった」
それを聞いて安心したのか、鏡花はほっと息をついた。

「そんなに気になるのなら、自分の目で確定してみれば?」
私は提案をしてみた。だが、鏡花は残念そうに首を横に振る。
「そうしたいのは山々なんですよ。でも、現世に来るには、法則のようなものがあって、簡単に来れるわけではないんです」
「法則?」
法則…とは一体なんだろうか。私は首をかしげた。
「詳しくはよく分かりませんが。確か…、時間、場所、亡くなった人の遺品、亡くなった人とどれだけ親しかったか、などが関係しているそうです」
なるほど。ここでようやく、どうして鏡花がいきなり現れたか、分かった。つまり、場所はともかく、夜、鏡花と親友の仲であった私が、鏡花の遺品である手帳を広げていた、ということが鏡花が現世に来るきっかけとなったのだろう。ふむ、と一人で納得していると、「カポ、カポ」と音がした。

音のする方━机を見ると、鏡花が手文庫を開けたり閉めたりしていた。
「何してるんだい?」
「あ、すみません。この手文庫、質素過ぎやしないかと思いましてね」
「自分で買ったものだろう……」
そう言ったが、それでも鏡花は気に食わないらしい。しばらく、手文庫を眺めてから、そうだ、という風に
「雪岱、この手文庫に絵を描いてくれません?」
と頼んできた。私は、その頼み事を即断った。
「嫌だ。君が気に入らなくとも、返礼としてすずさんから頂いたものだし、描けるわけがないだろう」
「私の遺品で、私が良いと言っているのだから良いでしょう?」
「そういう問題ではないのだが……」
「とにかく、お願いしますよ、雪岱」
鏡花も案外頑固なんだな、と思った。さすが夫婦、よく似ている。しかし、私としても毎回折れるというのは癪に障る。長い押し問答になることを覚悟して、私はさっきよりも強い口調で、自分の意見を押した。
「何回頼んでも、描くつもりはないよ」
鏡花がムッ、とした表情になる。
「別に―」
いいじゃないですか、鏡花はおそらくそう続けようとしたのだろう。だが、その言葉はどこかの家の鶏の鳴き声に消された。
「コケコッコー!!」
朝を告げるその鳴き声に私も、鏡花も驚く。
「あ、朝?!」
私はカーテンを開け、窓から外を見た。鏡花と話しているうちに夜が明けたのだろう。空は薄紫と青かったですが混ざりあった、明るい空になっている。鏡花が慌て始めた。
「もうそろそろ、天国に帰らなくては。では、雪岱。どうか、その手文庫に素敵な絵を描いてくださいね。」
「いや、私は描くつもりは……」
鏡花の姿がどんどん薄れてゆく。消えてしまう前に鏡花を納得させようするが、鏡花の方も下がらない。
「また今度、会いに来れたら、その時に絵を見せてください」
「だから、描かないと言ってるだろう!!」
そう叫んだ時、すでに鏡花は消えていた。あるのは、残された手文庫と手帳のみ。アルコールランプの火は消え、薄紫が残っていたはずの空は完全に青一色に染まっていた。


その日以降、何をしても、鏡花が再び私の目の前に現れることはなかった。
何度もアルコールランプに火を灯した。何度も手帳を広げた。手文庫も机の上に乗せた。“会いたい”と強く願った。それでも、鏡花は現れなかった。「また、会いに来る」と約束した言葉は嘘だったのか。鏡花がこちらに来れたのは奇跡だったのか。はたまた、あの夜の出来事自体が夢だったのか。とにかく、鏡花は現れなかった。

結局、 私は仕方なく、鏡花に頼まれた通り手文庫に絵を描くことにした。目立たず、気づかれにくい、蓋の裏に。何を描いたら良いのか、何日も悩んだ末、手帳に書かれた句にあった露草を描くことに決めた。描くといっても、もちろん私自身の仕事の絵も描かねばならない。故に、手文庫の絵はいっこうに描き進まなかった。そして、五ヶ月ほどの月日を経て、ようやく下絵が完成した。

下絵が完成し、夜に色付けをし始めた。意図せず、アルコールランプに火を灯す。下絵を絵筆でなぞる。なぞり始めて、一時間ほど過ぎた頃、背後から懐かしい声が聞こえた。

「わぁ、素敵な絵ですね!さすが、雪岱。」
私は驚き、ばっと後ろを振り返る。勢いよく振り返った衝撃で、首がぎしり、と痛んだが、そんなことはどうでも良かった。振り返った先にいたのは、やはり鏡花である。
「鏡花!!」
久しぶりに会うことができたという喜びで、私は思わず、鏡花に抱きついた。
「わっ!何ですか、いきなり。抱きついて来ないでくださいよ、汚いでしょう」
「酷い言葉だな。全然こっちに現れなかったくせに」
大人しく離れたが、あまりに素っ気ない態度をとる鏡花に苛立たちを覚えて、言い返す。しばらく、きょとんとしていた鏡花だったが、ああ、といった風に話し始めた。
「現れなかったのは、向こうで原稿に追われていたからですよ。なかなか仕上がらなくて」
「原稿……?君、向こうでも、小説を書いているのかい?」
「ええ、向こうの方に頼まれましてね。今度、本を出すんです。だから、」
鏡花が少し申し訳なさそうに、でも、私の手を握る。幽霊である鏡花の手は冷たいはずなのに、その時ばかりは生きている私よりも、温かかった。
「だから、また僕の本の絵を描いてくれませんか?」
そうやって頼む仕草は初めて出会った時と同じだった。私も、やれやれと呆れながら、初めて出会った時と同じ返事をする。
「もちろん。但し、小説の第一読者は私であること。それが、条件だ」
「分かってますよ」
鏡花はにっこり微笑んだ。机の上に置かれた手文庫は、まだ描きかけで、未完成のままだった。


一九四〇年十月十七日、小村雪岱という一人の画家が亡くなった。享年五十四。少し若い気もする彼の死に、誰かが「死者に連れて逝かれたのではないか」と噂した。噂が本当か、それは本人がいないこの世で確かめることはできない。だが、彼が晩年記していた日記のあるページに、こう書かれてあったという。
「今日、親友に天国ヘ逝ったら、絵を描くという約束した」と。


露草の花言葉「尊敬」、「なつかしい関係」


参考❳
·『新潮日本文学アルバム22 泉鏡花』
·『群像 日本の作家5 泉鏡花』
·里見弴/著『二人の作家』
·徳田秋聲/著『泉鏡花といふ男』
·2021年3月9日BS日テレ放送
ぶらぶら美術·博物館
▽小村雪岱スタイル 江戸の粋から東京 モダンヘ~三井記念美術館~


(あとがき)

はじめまして、如月万葉です。お読みくださり、ありがとうございます。

この小説は、参考にある、ぶらぶら美術・博物館での放送を見たときに思い付いたお話です。学校で「鏡花は女、だよね?」言われたのですが、鏡花は男です💦この小説でも、鏡花は男として書かせて頂いています。

不定期ですが、これからも小説を載せていこうと思います。良ければ、また読んでください。



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