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映画に見る「偶有性」

偶有性。かけがえのない自分の存在に気付くための最も重要なキーワードの一つでありながら、この言葉を知っている人は少ない。ここでは片渕須直監督の『この世界の片隅に』とクリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』の二本の映画を主に取り上げながら、その根底にある偶有性と伝わってくるメッセージについて述べようと思う。
ここで私が述べる偶有性とは、「無限の可能性の中から選ばれ、意図せずそうなった、ものの状態」のことである。『この世界の片隅に』の印象的なシーンの一つに、主人公の北條すずが晴美を時限爆弾で失った後に物思いにふける箇所があるが、これこそ正に偶有性の特性を端的に表している。もしも自分が左側でなく右側に立っていたら晴美さんは助かったのではないか・・・、消防団の言葉をちゃんと聞き返していたら晴美さんは助かったのではないか・・・、戦艦を一緒に見ようとしなかったら晴美さんは助かったのではないか・・・。事が起きてから、我々は自分が思ってもみなかった、無限に広がる「もしも」の世界を認識する。彼女はここで初めて、自分の人生を取り囲んでいるものには、自分が意識的に選択してつかみ取ったものだけではなく、意図せず偶然に分岐した事象も含まれていることに気付いたのである。偶有性とは、現在の自分が立っている場所とは異なる、知らず知らずのうちに分岐していた、あり得たかもしれない可能性の世界が存在する状態のことなのだ。


実は、偶有性は我々の日常にも潜んでいる。更に言うならば、偶有性は我々が生きている限り無限に増えていくのだ。例えば今私がパソコンにこの文章を問題なく打ち込めているのも、先ほどコーヒーを買いに外に出掛けた際、たまたま車に轢かれなかったからである。しかし、我々はそういった分岐点があったこと、自分の人生が偶有性に囲まれていることを意識せずに日常生活を送っている。先程歩いていた道にトラックが突っ込んだというニュースを目にして、もしも家を出るのが遅れていたら、と思わない限り、我々は自分が事故に巻き込まれた可能性が存在したことに気付かないのである。安全な、いつも通りの生活の中で我々は、目に見える選択肢からより良いものを勝ち取ることで忙しく、偶有性を夢想する余裕も、必要もないのだ。多くの人々が偶有性という言葉はおろか、その概念すらも知らないことは、このことが関係している。


それでもなお、私は偶有性について知っておくことは重要だと唱えたい。偶有性を知ることで、個人のアイデンティティは成熟するためである。ここではアイデンティティという言葉を自分が自分であることの尊厳と定義する。一般的にアイデンティティは、人生における様々な意思決定や自分だけの信念に基づく行動が積み上げられた結果、 形成されるものとされている。つまりその人が意識的に成してきた選択のみで構成されているということだ。しかしながら、このアイデンティティは、偶有性に直面した際には全くの無力である。上でも述べたように、人生上のイベントには自分が覚悟を決め、意識的に選択してつかみ取ったものだけではなく、意図せず偶然に分岐した事象も含まれているのだが、後者を考慮しない未熟なアイデンティティを以てして、個人の関与できない領域で起きた世界の分岐を納得できる形で理解することは不可能だからである。そのような分岐のことを神の選択や運命という人もいるかもしれないが、それはつまり自分が関与していないことの裏返しでもある。自分が辿ってきた分岐について論理的に説明することが出来ないということは、自らのアイデンティティが中空になってしまう。今まで自分が寄り添ってきたアイデンティティの内部に論理的に説明の出来ない数多くの矛盾の隙間を発見し、自分を構成していると思っていたものが自分のもとから乖離していくような感覚に陥るのである。自分が今生きていることの理由、足がかりが、突如として奪われてしまうのだ。

右手を失い、床に臥せる北條すずに目を向けよう。彼女の世界は、急速に崩壊を始める。彼女のアイデンティティもまた、偶有性と直面することで揺らいだのである。そこで描写される、歪な外界の様子や走馬灯のように駆け巡る言葉たちは、晴子の命が奪われたり、唯一の楽しみであった絵描きが出来なくなったことによる悲しみを表しているだけでなく、それと同時に、彼女のアイデンティティが揺らいでいることをも多重的に示したものであるのだ。戦争の悲惨さとは、しばしばショッキングに描写される物理的、肉体的な痛みだけでは決してない。戦争がもたらすアイデンティティの危機も、それと同様、あるいはそれ以上に苦痛を伴うものなのである。

さて、個人がアイデンティティの危機に晒されるほどに強い偶有性に気づくのは、どの様な状況においてであろうか。このことに答える前に、個人がどのように意思決定を行っているかを考えてみよう。選択肢に直面した際、我々はその多寡はあれ、取捨選択を迫られる。どちらかを選択することは、もう片方を失うということであり、我々はその覚悟をもって選択を決行している。一般的な日常生活において、結果的に選択が誤っていたとしても、後悔はあれどアイデンティティに影響はないのは、その覚悟を負っているからである。このことから逆説的に言えるのは、覚悟を負っていない、あるいは負いきれない事象に遭遇した際、我々は偶有性を認識するということである。このことは、日常生活において偶有性に気付かないもう一つの理由でもある。偶有性は非日常的な経験で露わになるのだ。そして、そのような事象の最たる例が戦争や地震といった、大規模な事故、災害なのである。これらは死者が多かったことだけが陰惨なのではない。死者を目の当たりにしながらも生き残った人たちがいるということが、実は語られるべき問題なのだ。彼らがなぜ生き残り、彼らの隣にいた人がなぜ亡くなったのかという理由を説明することは誰にもできない。「生き残ったのだから、それだけで幸せじゃないか、がんばろう」で済まされる問題ではないのだ。人が生きていくには、足がかりが必要なのであり、彼らはそれを奪われてしまったのである。

ここまで読んで、皆さんは思うことだろう。「偶有性についてはわかった。しかし、それを知ることがなぜアイデンティティの成熟につながるのか」と。北條すずの生き様に、その答えは隠されている。アイデンティティの危機を経験しながらも、北條すずは死んでいった人々の笑顔の入れ物になる、という自分でしか成し得ない行為があることに気付く。彼女は知人の死を振り返り、個人では関与できない運命のいたずらを認め、それを含めて自分が自分であること、自分が今こうして生きていることの奇跡に気付いたのである。自分の経験した全てをありのままに、起こるべくして起きたものとして、意志をもって受け入れること、これこそが成熟したアイデンティティに必要なものだ。この成熟したアイデンティティがあったからこそ、北條すずは戦争に屈さなかったのであり、この映画が戦争映画でなく北條すずの物語である所以なのだ。ラストシーンで再生の灯がともる呉の街並みを、北條すずのたんぽぽのようにしぶとく健気なアイデンティティに重ね、目頭が熱くならない人はいない。彼女のような一見パッとしない、平凡な人生を歩んでいるように見えて、その実強い意志と尊厳を持って生きていた人々こそ、戦争中、そして戦後の日本を支え今に導いた、陰の立役者なのだ。

アイデンティティを成熟させるためには、偶有性を含めて今まで自分が関わってきた選択のすべてを肯定し、自分が自分であることの奇跡を認識しなければならない。『15時17分、パリ行き』は、この自分が自分であることの奇跡にフォーカスした映画であると言える。劇中では終盤のタリス銃乱射事件に向けて、主人公スペンサーらの過去が淡々と示されていく。何気ない、華のない日常が序盤から長々と描写され、退屈になった方もおられるだろう。しかし、このどうでもいいと流していた日常のそれぞれが、クライマックスシーンでは我々の頭を走馬灯のようによぎったはずだ。スペンサーがもしもサバゲ―好きではなかったら・・・、寝坊していなかったら・・・、柔術を始めなかったら・・・、ヨーロッパに旅行していなかったら・・・、列車の中でネットを使う必要が無かったら・・・。これらの無限に連なる偶有性のボタンをどれか一つでも掛け違えていれば、スペンサーらがテロを防ぐという偉業は成し得なかったと、我々はそこで初めて「もしも」の可能性に気付き、はっとするのである。そして、驚くべきことに、こういった「偉業」に繋がるような人生の分岐点は、我々が普段何気なく過ごしている日常の中に存在しているのである。どんなパッとしない、平凡な人生を歩んでいる人間でさえも、アイデンティティを輝かせ、彼にしか出来ないことを成し遂げることが出来る。そしてその瞬間に、本人は今ここに自分が自分であること、自分が今こうして生きていることの奇跡を感じることが出来る。こういった胸を鷲掴みにされるようなメッセージこそ、我々がこの映画を見終えた際に感じる不思議な高揚感を感じる源であり、監督が伝えたかった内容だと思うのだ。

ここに挙げた二作の映画は、一見その関連性を認めるのは難しいかもしれないが、その実どちらの主人公も偶有性を認識した上でアイデンティティを成熟させ、自分が自分であることの奇跡に気付くという点でテーマが一致している。改めて述べる必要もないかもしれないが、ここでいう奇跡とは、単純に可能性がコンマ何パーセントだとかご都合主義の産物などといった平面的な意味合いで用いているのではない。人間一人一人が、無限の偶有性という数値化など到底不可能な分岐を選択した結果、今まさにこの世界に存在しているという、それこそがそれだけで奇跡なのだ。この「奇跡」に関わるメッセージを持つ作品は存外に多く、人類の普遍的なテーマなのだと改めて認識させられる。

このように、偶有性というキーワードを基に映画を紐解くと様々な発見がある。発見したメッセージは自分に投げかけなければならない。映画を観た後、我々は改めて自身に問いかけるべきだ。自分にアイデンティティはあるのか、と。現代社会は自らの延命のために、取り換え可能な歯車のような、集団を構成する同一要素としての人材を求めている。そこでは個性を発揮し独自の意志を尊重することよりも、集団に帰属し周りの顔を伺うことが求められる。クリント・イーストウッドも言っている。軟弱な時代だ、と。だからこそ、自分を持て、アイデンティティを確立せよといった骨太なメッセージが今の我々には必要なのである。

生きていること、それだけで奇跡なのだと我々の誰もが気付くことの出来る社会になることを祈りながら、ここで筆を置かせていただく。

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