我々に必要なのは天使の法則ではない

数値化することも、数値化できないものも両方同じくらい大切ですよねっていう当たり前の話です。


トマス・ピンチョンの著作、『重力の虹』に著されている、ある台詞が好きだ。

ロジャー、あなたの方程式はどうして天使だけのものなの。地上にいる私たちには、どうして何もできないわけ?

物語中、方程式によってV2ロケットが着弾する確率が地図上の各ピクセルにカラーの濃淡で弾き出されるのだが、それは俯瞰的な視点での数値データであり、実際にその場に生きる人間にとっては絶対的な安全を示してくれるものではないことを揶揄した台詞である。

よく思うのだが、平均寿命だとか平均所得とか国内生産量とか、そんな「平均」だとか「普通」の値にいちいち一喜一憂することに意味があるのだろうか。確かに社会を形成する一人間として、他者との交流は避けられないものであり、常識をわきまえることを要求されることは勿論ある。あるいはこのような統計により生計を立てている人もおろう。だが、その数値そのものは直接我々一個人の人生に直接影響を与えうるだろうか。この世界の全てをを現在過去未来とすべてを通して四次元的に俯瞰しているならその数値に意味はあるだろうが、生憎我々はそんな神のような存在ではない。ごく限られた領域で現在のみに縛られて生きているしがない存在だ。外れくじを引く可能性が何%であろうと、実際自分が本当に外れくじを引くかどうかはどの時までわからない。そういう意味では事象が次の瞬間に起こる可能性は常に50%なのだ。

それなのにこの数値たちから影響を受けてしまうのはなぜだろう。思うに、数値化によって平均と自分とを比較してしまうからではないか。何度も言うようだが、比較や数値化それ自体が悪いとは言わない。だがそれだけが人生ではないだろう。一個人の人生の価値とは、数値化できない故に唯一無二で価値のあるものだからである。個人の人生の主語は自分であるべきであって、神や天使の視点から見たものを選び続けることが絶対的な正解ではないと僕は考える。

個人的には常に一般論を標榜する人、他者との比較の上でしか自身の価値を見出せない人は大変だなと思う。全てを数値化しなければそれに価値や魅力を感じることが出来ないからである。価値の基準を自分の感覚でなく、外側に置いてしまっているからである。物事を数値化し統計的なアプローチをする事は社会を営む上で本当に大切なことだが、それは「一般論」を見つけるための方法、もっと言えば例外を無くして標準化していくための手法でもあるんじゃないか。この考え方だけがまかり通った世界では、標準化された同じものばかりが求められ、量産されることだろう。そしてそのような量産の波の中で「創作」は姿を消してしまうのではないか。数値化不可能な製作者の思いが込められる機会は無いのだから。

全てを数値化、統計こそ叡智、という考えを推し進めていくと、何にでも数値的な価値が付加されるようになる。価値を数値化し、可視化するということにより、見えない曖昧な基準は取り除かれ、人は常に等価交換を意識するようになってしまう。数値化には便利な恩恵はたくさんあるが、その一方で人の心の「あそび」、許容の心を削り取ってしまう諸刃の剣なのだ。等価交換の徹底は損得勘定というプログラムにのみ従って動く機械への変貌を導く(これについては過去のエントリでも述べています)。他者への同調圧力や誹謗中傷の激化はこのことと無関係ではなくないか。老婆心ながら、危惧すべきことのように感じる。自分は自分の思想にしたがってここに断言する。そんな人生、そんな社会、そんな未来は間違っていると。

なんてことを思っていると、たまたま統計学の権威である赤池弘次先生の記述に出会った(どのくらい有名かというと、1970年代に提唱した赤池情報量基準と呼ばれる手法が現在に至るまで全世界で使われている位)。

既成の統計理論から正確な議論をしても、適用する対象の特性をうまくとらえない限り、役に立たちません

権威に縋るのは個人の主義に反するが、この対談録は自分をかなり勇気づけてくれたように思う。もうお亡くなりになられた先生だが、知識量だけでなく例え話やエピソードも現代に十二分に通用するほど深遠で面白く、統計学を学んでいる人もそうでない人も興味深く読み進めることが出来るので、ぜひともご一読をお勧めする。

さらに僕の愛読書『Q. E. D. 証明終了』の主人公、燈馬想も、MIT数学科を飛び級で主席卒業したのちに日本の普通の高校に通っている理由を尋ねられた際、今回の文に通じるようなことを言っている。

お花見は桜の花一つ一つ見てるわけじゃない 形のない全体があって そしてそれ全部があるだけで楽しくなるような (中略) 僕は・・・ ずっといろんな”形”ばかり見つけようとしてきた 確かにそれは役に立つこともあるけれど 今はそうじゃないものに触れていたいんです

今回自分が述べたい内容は、ごくありふれた内容で、既に様々な著作に様々な形で著され尽くされているのかもしれない。

冬月コウゾウも言ってましたもんね。

私は、ヒトでけがれた混沌とした世界を望むよ

以上です。読んでくださりありがとうございました。

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