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煙草

 奴が来たら煙草を吸おうと決めていた。
 さも普段から嗜んでいるかのように、迷いのない所作で、おもむろに火を付けてやろうと決めていた。
 あいつ、どんな顔をするだろう?慣れた手つきで煙草を吸う僕を見て驚くだろうか。或いは、ぎこちなさを見抜いて笑うだろうか。僕は、左のポケットに入っている煙草の箱をズボンの上から擦った。

「うい、バイトお疲れさん」
 奴が来た。端正な顔立ちの青年が僕の正面の席につく。
「お疲れさん。こっちも今来たところ」
「何にする?」
 メニューを開く。ハイボール、ファジーネーブル、カシスオレンジ。聞いたこともないお酒が並んでいる。お酒が裏側に書いていないことを知りながら、僕はわざとメニューを裏返して首を少しだけ傾げた。 
「ん、じゃあビールで」
 何を頼めば良いのか分からない。内なる動揺を悟られないように、最早見ていないメニューを何度か翻しながら、僕はできる限り淀みなくそう発声した。
 大衆居酒屋特有の安物の灰皿を横目に見る。そのまま視線を上げると、バンダナを頭に巻いた店員たちが忙しなく動いていた。ガヤガヤと煩い店内ではあったが、自分たちの周りだけ、いやに静かであるように感じていた。
 そうして僕は煙草を取り出す機会を逸したまま、膨らんだ左のポケットを擦り続けた。


***

 学部が同じAとは、大学の食堂で知り合った。入学したての頃、数人しか知り合いができなかった僕は、毎日その数人と固まって昼食の時間を過ごしていた。次第に数人がそれぞれの講義で知り合った友人を連れてくるようになり、仲間が増えていった。その中に、Aはいた。
 Aは自分と同じ18歳とは思えないような、大人びた雰囲気を纏っていた。落ち着いて見えて、お調子者な一面もあった。会話の引き出しも多く、いつも話題の中心にAはいた。まだ少ししか関わっていない僕でさえ気付くことができるAの魅力に周囲の人間が気付かない訳がなく、次第にAの周りには人が集まるようになった。きっと、そういう星の下に生まれた人間なのだろう。僕は、あっと言う間に人気者になったAを、羨望と、嫉妬と、そして諦めが混じった感情で眺めることしかできなかったのである。

 大学の入学式の前日、キャリーケースを引いて新幹線に乗る直前に、親から「この世は悪人まみれだ」と教えられたことを覚えている。初めて親元を離れる子にかける言葉がそれかと僕は笑ったが、それでも親は真顔だった。貴方が想像もできないような悪がこの世にはたくさんあって、当たり前に、平然と存在していると。
 此の親にして此の子ありという教えが示す通り、僕は人を信用できない性質の人間であった。笑顔で近付いてくる人間を、まずは拒絶する人間であった。他者を愛せない人間が愛されるわけもなく、僕と馴染みになる人は多くなかった。それでも良いと思っていた。氷が解けていく過程を楽しむことができる感性を持ち合わせた人間だけが自分の周囲に残っていれば良いと思っていた。
 しかしながら、僕は大学に入学して早い段階で、その思考は自分の深層心理を表したものではなかったことを自覚した。周りに人が集まるAを見て「羨ましい」と思う自分に気付いたからである。周囲の人間に愛される能力も愛嬌もなく、何者でもない自らを保護するために、無意識で「自分は人を信用できない性質だ」と自分を騙し続けていたことに気付いた僕は、煙草を吸うことにしたのだった。

 煙草は何者でもない僕を何者かにしてくれる気がした。普通にしていたらただのつまらない奴であるはずの僕が、煙草を吸っているだけで周りに「あいつはスゴイ奴だ」と思ってもらえる気がした。だから僕は美味くもない煙草を吸った。
 僕は毎日寝る前に、コンビニで年齢を偽って買った煙草を下宿の換気扇の下で吸った。ライターをカチリと鳴らして煙草に火を付けるのも、日に日に上手くなっていった。煙草は一口目が一番美味いとよくいうけれど、それはいつまで経っても僕にとって不味い煙であるだけだった。

 ある時、僕はいつものように換気扇の下で煙草を吸いながら、不意にAのことと自分のことを考えていた。Aの周りには何故人が集まるのか。答えは単純だった。Aが周りの友人に心を開いているから。
 いつだったか、食堂でAがおどけて言ったことがある。「俺は心のドアが自動ドアである」と。へえ、と思って聞いていると、奴は僕の顔をじっと見て言った。
「俺はお前のこと面白れえヤツだと思ってる。心のドアが何枚もあるから」
 その場にいた友人は「またAが変なこと言ってるわ」と笑ったが、僕はその時どんな顔をしていたか最早思い出せない。Aは僕の浅ましくて青臭い悩みに気付いており、そしてそれを「面白い」と言ってのけたからである。
 僕はまだ恥ずかしくて人前で吸えない煙草をゴホと咽ながら吸った。

 卑屈で、下劣で、哀れで、情けない男。自分の本性に気付き、Aと自らの違いをはっきりと自覚したあの夜から、自己を肯定する感覚がにわかに消えていくのが分かった。僕は自分自身の取るに足らない自尊心を保つために、くだらない嘘をつき続けていたのである。そして、僕は戸惑っていた。このまま嘘をつき続けるのか、自分自身に正直になるべきか。
 内面をさらけ出すことの大変さは人一倍知っているつもりだった。それが出来なくて「自分は人を信用できない」と自らを騙すことになったのだから。どうせできやしない。他人に心を開き、他人を受け入れることは今の自分には難しい。仮にそれが出来たとしても、Aのように人を集める魅力が自分にはない。考えれば考える程内に秘めたる天邪鬼な自分が顔を出し、「できない」理由を次から次へと作っていった。そしてできない理由が増えれば増える程、Aへの羨望も強くなっていった。
 どれだけ考えを巡らせても、Aと僕は真逆な人間であるように思えた。しかしながら、Aは僕のような卑屈な人間から何一つとして得るものがないはずなのに、むしろ一緒にいるのを楽しんでいるように見えた。不思議な男だ。僕なんかとつるんで何が楽しいのか。
 僕の懐疑心とは裏腹に、Aは無条件に僕のことを信用してくれていた。「お前にだけ」と行きつけの美容院を教えてくれたし、僕のことを「俺の親友だ」と周囲の人間に紹介してくれたりもした。
 親友。Aは僕のことを親友だと言ってくれた。まだ出会って間もないのに?僕は知りたくなった。どうしてAは僕を信用してくれているのか。Aは僕のどこを魅力に感じてくれているのか。そして、知ってほしくなった。僕が煙草を吸っているということを。僕がAを羨んでいるということを。

「バイト終わった後飲みに行かん?明日」
 講義を終え、バス停に向かう道すがら、Aは唐突に言った。
「え、逆にいいの?僕はいいよ」
 7月の夕暮れはやけに綺麗で、傾いた陽がレンガ色のキャンパスを鮮やかに染めていた。
 僕たちは長く伸びた欅の影法師を跨いで歩きながら話した。
「よし、じゃあ決まりね。片町スクランブルの『いろはにほへと』に23時集合ね」
「いいよ。誰呼ぶ?」
「ふたりでいいよ。サシで飲もう」
「分かった」


***

 10年前のあの日の夜、僕たちはたくさんのことを話した。結局Aの前で煙草を出すことはできなかったけれど。
 それでも僕たちの仲を深めるのに、あの夜は必要不可欠だったのだと今になって思う。僕は信用できる人間に自らの心の内を曝け出すことの愉しさと尊さを知った。
 Aの前で煙草を吸えなかった僕の丸い背中も、不自然なまでに擦った左のポケットも、僕の心の内を知ってか知らずか無邪気に笑うAも、今となっては愛くるしい思い出の一つだ。

 そして今、出張で訪れた新橋にある喫茶店で、奴が来るのを待っている。あの時の僕は、どんな思いで左のポケットを擦ったんだっけ。そんなことを考えていたら、コーヒーを注文するのも忘れてしばらく物思いに耽ってしまっていた。

「うい、出張お疲れさん」
 奴が来た。スーツ姿のAが席につく。
「お疲れさん。こっちも今来たところ」
「何にする?俺はブルーハワイのクリームソーダ」
「ん、じゃあブレンドで」
 僕は左のポケットから電子タバコを取り出し、電源を入れた。
「今日中に帰るの?名古屋」
「うん」

 僕たちは今でも「あの頃の青臭さ」の象徴として、まだこの話をすることがある。
 何度も話して擦り切れたような思い出でも、何年かぶりに話すことで毎回あの頃の色彩や香りとともに、まだ子供だった頃の新鮮さやむず痒さが蘇ってくるから堪らないのである。
 紙巻きから電子に代わってしまい、人前で吸うことに何の尻込みもしなくなった煙草を僕は今も吸っている。
「君にだけは見せるよ。僕の隠し事を」
 あの時Aに言えなかった言葉は、今なら淀みなく言えると思う。言わないけど。僕はなんだか恥ずかしくなって、照れ隠しに電子タバコを思い切り吸った。
 水蒸気の薄い煙の向こうで、Aがニヤニヤと笑っていた。



おしまい

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