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いつか記憶からこぼれおちるとしても

 神田と秋葉原の間にある、昔ながらの喫茶店にいた。有名店なので覚悟はしていたが、昼を外した時間に来たのに混んでいた。名物のチーズケーキセットが、席を通されてからしばらくして目の前に置かれた。
 隣のOLはチーズケーキの他にもう一つなにかケーキを頼んでいたので、到着に時間がかかるらしかった。

 秋葉原で用事を済ませてきた帰りだった。ロゴが剥げたサンローランの長財布からラミネート加工されたチケットを取り出す。曲がりのないまっすぐとした表面をつやつやと撫でる。ケーキとコーヒーとチケットと、謎の3ショットで物撮りをする。シャッター音が薄くかかっているクラシックを一瞬掻き乱し、店内はまた平穏に戻った。
 チケットだけは誰にも見られないよう細心の注意を払ってはいたが、どきりとした。目の周りの筋肉がこわばり、視界が固定される。凝視の先には「PUREMIUM 山岸逢花さん イベントチケット」。

 AV女優・山岸逢花のサイン会整理券だった。
 AVなんてネットでそこら中に落ちている素人物を一期一会で見るタイプだった。保存もしない。もちろんAV女優も詳しくない。イベントなんてそんなもの行ったこともないし、行こうと思ったこともなかった。
 でも、ただ無性に会ってみたかったのだ。山岸逢花というAV女優に。
 ダメ元というか、本当に行こうとしている自分の気持ちに半信半疑になりながら、発券場所のアダルトショップを覗いてみると、思いのほか簡単に手に入った。平日休みだったからだろうか。そもそも難易度がわからない。
 いやでも、さすが東京。意外と簡単に会えるもんなんだな。名前とか知ったのもつい最近なのに。

 さっきの物撮り写真をツイッターの誰も見ていない弱小雑多垢にアップすると、いつもと様子が違う。ほんの1時間でいいねが馬鹿ほどついて驚いた。海外のアカウントもある。さすがエロ産業のパワー。
 ひとつひとつ見ていくと、なんと山岸逢花本人にいいねされていた。それから拡散され、世界のAVファンの目に留まったらしい。ケーキとコーヒーとチケットの組み合わせってそんなに珍しかった?
 ていうか山岸逢花さん。え、いい人、好き…。



* *


 推しに直接好きだと伝えられる機会が貴重なことは、いくらAV女優イベント童貞の自分でも理解していた。

 当日、寄り道をして準備していたレターセットに自分の思いをしたためた。秋葉原のマクドナルドの2階席をコーヒーSサイズで確保した。誰かが食べたポテトのかけらを下敷きにしてしまわないように、アルコールティッシュで何度も何度も机の上を拭いた。



 山岸逢花様

 前に逢花ちゃんにそっくりな人と恋愛をしていたことがあります。
 知り合いに似てるという刺さり方は特にセクシー女優にとって最強の刺さり方だなって実感しました。
 ただ、それだけじゃなくて逢花ちゃんが自分らしく自分のペースで頑張ってるのを見て最近はその人と重ね合わせるのではなく、山岸逢花ちゃん自身の魅力をたくさん感じています。
 いつか逢花ちゃんにその人と僕の恋愛の話聞いてほしいです、たぶんウケます。大学の時だけど今でもはっきり思い出せます。

 この前ラジオで「柔軟剤使わない」って言ってたなあと思いながらも、なぜか差し入れに柔軟剤を…。
 これからも応援しています、頑張ってね!
                      

 最後に自分の香水を便箋にかけて、有楽町で買った某コスメブランドの差し入れの中に入れた。これのどこがAV女優イベント素人男なのだろうか。怖い、怖い怖い怖い。最高にイカれてるよ…。

 でもどこか清々しい気分で店を出る。リフレのキャッチをスイスイすり抜けて、肩で風を切って目的地を目指した。


 店は既に人でごった返していた。感じたのは年齢層が意外と高いこと。そして山岸逢花のファンというより、AV女優に会うことを目的とした非日常的なエロイベントの一環として来ている人が多かったように思う。

 「こういうイベントには何か礼儀作法があるのだろうか」と内心オドオドびくびくしながら店内の階段におじさんたちと一緒に列をつくった。その中で「俺はAV女優なら誰でもいいわけじゃないし。山岸逢花だから来たんだし」「別にAV女優のイベントに来るくらい何もいやらしくないし、普通のことだし」と毅然とした心持ちと表情は崩さないように意識した。

 だが、興奮のせいか余計なことを考えすぎていたのか、前のおじさんとのソーシャルディスタンスを詰めすぎてしまい、おじさんが憤怒の表情で翻ってきた。そして持っていた傘をズイと突き出し、床に貼られた2メートル間隔のテープをビシバシと叩いて威嚇をされた。普通に怖くて、脳の奥がじんわりと冷たくなった。顔の左半分だけがゾワッと痺れた。

 それから後は、ちょうどスカトロ物のコーナーに差し掛かっていたので「スカトロって本当に性的嗜好全くないなあ。そもそもこれ本物なのかなあ」とか「そういえば幼稚園の時、ブラジル人のカストロ君って子が同級生でいたなあ。あの子、結構紙一重だなあ」とか、なるべくおじさんのことは考えないようにした。

 いよいよあと5人のところに差し掛かると、ブースから山岸逢花本人の声が聞こえてきた。しかも結構楽しそうな可愛らしい声が。あと3人のところでは階段の段差がちょうどいい感じになり、警官コスプレの山岸逢花のパンツが丸見えで興奮した。

 そして、前のおじさんの番が来る。おじさんは先程の態度と打って変わって猫撫で声で「最新作見たよ。あれって本当に中野駅前でナンパされたの?羨ましすぎるヨォ〜」と声をかけていた。イベントを手伝っているスタッフさんにも山岸逢花本人にも認知されているようでおじさんは「伯爵」と呼ばれていた。
 吹き出しそうになりながらも、緊張で手汗をかいていた自分にはいい緩和だった。

 イベントが終わって、帰りの山手線でイベントの写真を振り返る。なんとツーショットも撮れたのだ。目尻に異常に皺を寄せたぎこちないダブルピースのマスク男が自分だと、何度目を擦っても信じられなかった。


 いつか逢花ちゃんにその人と僕の恋愛の話聞いてほしいです、たぶんウケます。


 山岸逢花に、僕の恋愛の話を聞かせてあげられる日は来るのだろうか。

 そんなことを考えながら帰り道、池袋北口の喫茶店「伯爵」に僕は寄ることにしたのだった。




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