論65.イメージから表現へ

○映像とイメージ言語
 
 マニュアルやハウツーとは、言語化したものを指すだけではありません。一見したらわかるという映像もあります。しかし、あえて言語を使うとしたら、映像で形だけが伝わるのを防ぐ意味もあります。
ことばだけでは、映像よりわかりにくい、伝わらないことも多いのは確かですが。それでも、私が経験したところ、言語で言語らしくないもの、普通の人にはわかりにくいことばが、上達していくプロセスでの経験の段階で、腑に落ちることがよくあります。
それは、映像では見逃されてしまいやすい内的な感覚で、私がイメージ言語と言っているものです。それを型として、わからない人にも最初から投げかけることが、スポーツや武道ではよく行われています。
 
 
○イメージ言語からの習得
 
 バスケットでいうと、「膝でシュートしろ」、野球なら「腕で投げるな」「腰で打て」などですが、これらは、多くの球技に共通して使われます。運動生理学的には、ありえないことばで、初心者にはわからない、でも、うまい人のフォームを毎日みていると、そのようにみえてくる、感じられてくることもあります。
自分でやり続けていくと、少しずつ、つかめてくる、そして、あるとき「これか」とわかる。それでマスターできる人もいれば、少しずつ、その頻度が上がっていく人もいます。
同じようなプロセスをわかってマスターした人が多くいるので、そうしたことばが、代々引き継がれていくのです。マニュアルやハウツーには記されない「現場のことば」です。
 ヴォイトレでも、「喉で歌うな」ほか、こうしたイメージ言語はたくさんあります。そして、多くの人が「それで得た」というものが残って受け継がれていくのです。
 
 
○目的と手段
 
ヴォイトレの分野では、まだ、そうしたイメージ言語を、科学的にとか、生理学的に「違う」などということを真面目に指摘する人がいて、それが賛同を得てしまうくらいのレベルなのです。
ヴォイトレマニア、ヴォイトレファンは、私は、嫌いではないし、何事にも関心をもって発言するのはよいことだと思っています。
しかし、「誰のために?」と自問してみるとよいでしょう。自分のことを抜きにして、一般論を人のみえないところで論じても、何の意味があるのかと思うのです。
私は、いつも場をもち、そこでの具体的な相手に対して述べています。その上で、他の人にも役立つならと公開しているのです。
 
 
○ノウハウと作品
 
目的と手段の取り違えをしているなら、注意してあげたいと思います。それを知っていて意図的に手段を目的化しているなら、別ですが。
たとえば、ヴォイトレの本というのは、歌ったり演じたりするための手段のハウツー書、ノウハウ本とみられています。しかし、私は、これも作品として世に出しているつもりです。これは、立場が違うのであり、どちらがどうということではありません。
トレーナーにとっては、他の人のトレーニングのところが作品、トレーニングを受けるクライアントは、それを使って得たもので、自分の作品をつくるのです。
 
 
○道
 
 茶道がもてなしのためにあるのなら、茶器もお花も絶対に必要なものではないのです。でも、茶器を作品とする人やお茶を栽培して最高品質のものをつくる人には、それはそれで成り立つと思うのです。そこから先は、手に入れた人に委ね、どう使われようが、です。
茶の道と、道がついたからには、そこは精神的なものがあり、そこから出た振る舞いや所作が、人の心に通じるものとなるのです。それに使われるものも、高いレベルを求められ、深められていくのです。
 
 
○テーマの不在
 
伝えたいことは何なのか、最初は、それがあって述べていくのです。しかし、そのうち、伝えたいことが尽きてしまい、書くためにテーマをつくり、材料を探し、創作に苦しむ人もいるでしょう。
 近代以降、メディアは、それを強いてきたのです。テレビにしろ、新聞、週刊誌にしろ、伝えたいことを入れて拡大していったワクが、今度は、埋めるものを探し、つくることにあくせくします。より人目を引くものを入れるのに苦心するのです。
そして質が保てなくなる。表現を世に認められた誰もが経験していることではないでしょうか。
いえ、中高校生でさえ、文化祭がある、合唱コンクールがある、そのために出し物やテーマを探し、決める苦労をしています。きっと多くの人は経験したことだと思うのです。
 
 
○手段からアートへ
 
 日本の政治でもそうです。海外と違ってイデオロギーや支持層が区分けできないところでは、党があっても、その掲げるポリシー、つまり、テーマは、似たり寄ったりとなり、混沌とするだけです。しかし、それにも関わらず、分立し続けているのです。そこでテーマやマニフェスト捜しが始まるのです。
 演歌が演説であり、演劇が社会思想の伝達の手段であった頃は、テーマがあり、政治、社会、生活とアートは結びついていたように思うのです。プロパガンダ、プロテスタントなど、そうした手段でなくなったからこそ、純粋に芸術となっていくともいえるのですが。
 
 
○伝えたいこと、表現
 
 テーマ、主義主張、思想、価値観と、世界観、人間観とは違うといえます。
 自分のオリジナリティというと広すぎるのですが、ものの見方、聞き方としても、それは、皆、それぞれ違うのです。
日常会話でも、「あの店のあのパンは、変な味でおいしい」という情報は、他の人を刺激するでしょう。そのわかりにくい評価が問題提起となり、自分なら、どう感じるのかに関心がいくと思うのです。
 
 
○妄想の力
 
 私は、かなり昔に、夢を記述する人のストーリーを聞いたり読んだりして、閉口してしまったことがありました。そんな妄想につきあって、何がおもしろいのかわからなかったのです。
しかし、考えてみれば、妄想を記述しているのは、作家もアーティストも、そして、私も同じなのです。
そこで芸術とか文字とかいうほどではないものは、おもしろくもない記述なのです。記述のおもしろいものが、売れる文学、小説やミステリーになるのでしょう。
妄想とは、人の心の内なのだから、誰もが覗いてみたいと思うものです。宇宙や脳の内部よりも興味を引く度合いの強いものです。それゆえ、作品は生み出され、読まれ、継承されていくのでしょう。
ただ、ドラマには、必ずドラマチックなシーンがあり、そこで、私たちは心を揺さぶられます。だからこそ、ドラマは終わることができるのです。
 
 
○ダメをなくす
 
 よいものは、どう創るのかがわからないのですが、ダメなものは、どうしてダメなのかはわかりやすいです。誰もが「ダメ」をチェックするからです。ですから、そこをなくすことでダメでなくしてみせようとします。
それは、プロデューサー、演出家の役割です。何せ、時間、空間、予算など、いろんな制限が現実として立ちふさがっているなかで、評価に足るものを創らなくてはならないからです。評価のマイナスとなるものを切ることが欠かせません。つまり、点を取るより取られないようにするのです。
 
 
○よいものを出す
 
 こうして、ダメなことをやらないようにするノウハウは教えられるし、ダメなことを出さずに凌ぐハウツーは身につくでしょう。
しかし、それは、よいものを創ることではありません。よいものを邪魔するものをなくしても、よいものが生まれるわけではないでしょう。
 そもそも、よいものが出ていないのに、だめなものがわかるのでしょうか。それは、かつてのよいものから判断しているのでしょう。
かつては、過去です。となると、ダメなものをなくすのをやめて、よいものを出すことが先決です。
 
 
○プロセス、ステップに戻るな
 
声や歌でも、音楽、伴奏の流れを邪魔せずに歌詞を聞きやすくのせるようになりました。あとは、演出効果や振り、表情、ルックスで凌ぐわけです。元々、それで日本の歌謡界は動いてきました。
シンガーソングライターはじめ、作詞作曲家のプロとしての一流の作品の存在あってのこと、また、海外の一流の作品の影響力をうまく利用して、歌は、一世を風靡したのです。
このときのプロセスや構造が、歌や声のパワーを奪っていったとも思うのです。
 
 
○ヴォイトレのハウツー化
 
 それがハウツー、ノウハウの限界なのだと思います。そして、それに基づいたものに、ヴォイトレは淘汰されてきています。
ヴォイトレに関わらず、もとより、トレーニングのメソッドは、そうなりやすいものです。
それは、誰もが一定の期間に一定の成果を出せるようにするからです。いわば、教科書の副読本のようなものです。それゆえにノウハウ、ハウツーとして扱われているのです。
 
 
○国際レベルとヴォイトレ☆
 
今のヴォイトレで、心身、特に肉体面が発声に必要なところまで鍛えられていかないのは、その必要のレベルが国際的には日本はとても低いからです。
一方、国際的には、日常レベルでも、すでにそこをハイレベルでもっている人しか参入しない分野ゆえに、個別に体験してきたハードなトレーニングは明記されていないのです。
 
 
○ハードな条件は、声からフィジカルまで
 
オペラともなると、歌い手に課せられる条件は相当にハードです。アスリートと比較しても劣らない、でしょう。
というと、日本の場合は、全てがフィジカル面にいき、プロは、ハードな筋トレやランニング、さらに柔軟や整体も含めた体の管理を、となるのです。
ややこしいのは、そこと発声やその器官のトレーニングが重なって、効果を上げたり下げたりもしているということです。
つまり、フォームがベストのときに筋トレでバランスを崩してはよくないようなことが、微妙でわかりにくく、ヴォイトレには個別に入ってくるのです。
 
 
○説明しない
 
 俳人の夏井いつきさんは、俳句の評価で、「説明的なところは不要」と指摘します。これは、アート全般にもいえることです。
映画でも演劇でも、地の文は、ナレーションで別に、最低限、うまくまとめて入れています。登場人物が説明したらシラけるからでしょう。そこが、小説などとライブの舞台芸術との大きな違いでしょう。
 
 
○自分を知る
 
a.自分の声の使える範囲を知っている 声量、声域、声質
b.自分の歌の聞かせどころを知っている フレーズ、ことば
c.自分の表現の独自性を知っている
すぐれたマネージャーやプロデューサーがいれば、これら全てを本人が知っておく必要はないかもしれません。
今のヴォイストレーナーの仕事は、aの拡大や調整が主です。それは表現、歌などに結びついてのことなので、b、cへのインスピレーションは欠かせないはずですが。
 
 
○キィとテンポ☆
 
私は、「歌のキィとテンポは自分で定めるように」としつこく言っています。カラオケ機器でも容易にできることです。
それなのに、多くの人は、これを歌手の創唱した原曲、つまり、原調とそのテンポに合わせて、自分の歌の可能性を台無しにしています。
その歌い手の歌には、そうすることで似るからです。調やテンポを変えるほど似ることから離れるからです。似ることがうまいとされ、それを目指すのですから、そうなります。
しかし、表現だけでなく喉のためにも、自分にもっともふさわしいキィ、テンポで歌うことを知らなくてはなりません。
(「こなすために」のヴォイトレと、「力をつけるため」のヴォイトレとは、全く異なるのです。
 
 
○コピーのすすめ☆
 
 そのためにスタンダード曲をそのままコピーすることをおすすめしています。一見、先述したことと反するようですが、キィが自分に合っていないことを知るのと、その調で歌うとどうなるのか、それでもうまく処理できる応用力を身につけるのに役立つでしょう。
さらに、同じ曲を他の歌い手が歌うのをコピーするとよいでしょう。ポピュラーなら、それぞれに違うので、だんだん、いろんなキィやテンポで歌うことに抵抗がなくなります。応用力がつくのです。
それと同時に、自分の好き嫌いや得意、不得意も自覚できるようになります。そういうことで、苦手意識をなくし、高音、裏声、ファルセットなどの発声をマスターしていく方が、よほど理に適っていると思うのです。
 
 
○応用のよさ
 
応用のよい点は、多様に変じたものに合わせようとしているうちにワクが外れることです。つまり、真面目に一つのことに取り組んで解決していきにくい問題が、いい加減に遊び気分、できてもできなくてもよいくらいにリラックスして適当に続けていることで、新たな可能性として開かれてくるからです。
固めてはよくないのは、声も喉も頭も心身も全てです。「柔軟にしなやかに」、の時間を練習にも取り入れましょう。
 
 
○鋭さとあたり
 
 勘や直観の働きを最大にセットしていく表現の世界で、それを抑えるようなレッスンやトレーニングは、気をつけなくてはなりません。
「しぜんに」というのも同じく、それは「センス」とでも言うしかありませんが、適当に声を出したり、歌ったりしているなかで、自分の感性で修正していくのです。
そこであたりをつける能力、つまり、センスが鋭いか鈍いかで問われるのです。
鋭ければ、できるところまで自分本位にやっていく方がよいし、鈍いのなら、それをレッスンで教わって磨いていくことです。
(そういうレッスンを見つける方が難しいとは思いますが)
 
 
○鈍さ
 
ただ、鈍い人は、なぜか、やはり、そういうことに鈍いトレーナーと相性が合うのです。そういうトレーナーを気に入って、そこでクローズされたレッスンでさらに鈍く固めていくことが多いのです。
本当にすぐれた人は、結局は、「誰のレッスンにも順応できる」し、「どのトレーナーからも教えやすいという評価」を得られるものです。
(ただ、ここでのすぐれたというのは、日本でのプロとしてのことで、アーティストとしてというのではありません。)
 
 
〇よくないこだわり
 
ですから、一人のトレーナーや一つのノウハウにこだわらない方がよいです。しかし、そういう人ほど、あるトレーナーだけで、ある方法だけでやりたいと言います。
自分にやさしいトレーナーと、最初、やり始めるのはよいと思いますが、ずっとそのままで自分に対応能力がついていかないようなことが見落とされがちなのです。
 
 
○クローズされたレッスン
 
私は、最終的には本人の意向を重視するので、そのメリット、デメリットを話した上で、ときどき、他のトレーナーにみてもらい、チェックしてもらうように勧めます。
そうしない人の多くは、他のトレーナーがみると、あまり変わっていないことが多いのです。
それは、必ずしも、ついたトレーナーの指導力のせいではなく、むしろ、その人がそのトレーナーの指導をあまり活かせない方向へともっていってしまうからです。そのトレーナーの指導力もそのレッスンでは、鈍くなってしまっているのです。
 どうしようもないままの原因を探らずに、そのままにして、精一杯のことをしているので、お互いに離れられなくなるのです。
 
 
○体験談
 
 レッスンは、いろんな試行ですから、うまくいくときもあれば、うまくいかないときもあります。
ずっとうまくいくというのは、ありえません。あるとしたら、それは、レベルが高くなっていないということです。
経験のない初心者がやったら、やった分うまくなるのは当然です。それは、入門のレベルのことです。
私がゴルフでもボーリングでも始めたら、最初の10回くらいは毎回、スコア更新でしょう。体力、気力、集中力で有利な人であれば、その年齢の平均点くらいまでは、難なくいくように思います。
だから、2、3年くらいまでの体験談などは、当てになりません。そこで効果が出ないことなどは考えられないからです。
 
 
●問題のこと
 
私が研究所の体験談を集め、公開しているのは、効果をPRするためではなく、レッスンメニュと気づきのプロセスを共有して、そこから先をみて、検証するためです。
 
本当の問題は、誰もができることをできたところから先でしょう。ですから、そこまでは、どのレッスンでもよいともいえます。
しかし、問題となる先のことを考えて、最初から補強のトレーニングなどを課すのなら、本当の上達には、より早く入ることができ、長く続けられることでしょう。
 
 
●その先への体制
 
 クライアントがいつやめるのかがわからないと、トレーナーは、少しでも早く小手先でも成果を得させることを考えないわけにはいきません。
研究所では、ホームページや本などを読んでそれなりに、真剣に1、2年は、基礎をじっくりと取り組みたいというクライアントに恵まれてきました。
トレーナーにはとてもありがたいことです。トレーナーもその先を念頭にトレーニングができるからです。
結果として、半年でやめるつもりでいらした人も、2年3年と継続することがほとんどです。
 他のレッスンで伸び悩んでいたら、是非、お試しください。
 
 
●フィードバックと検証
 
 仮説と検証、実践とフィードバックのくり返しというのは、レッスンだけでなく、全てにおいて貫徹させるようにと努めています。出した本でも研修でも同じです。
私の研修では、事前アンケートから、3回の研修なら3回とも事後アンケートをとります。その感想を元に私の想定イメージ(仮説)と、相手が感じたこと(疑問や要望)を得て、改良して一歩深めた実践へ結びつけています。
研修でも、声は個別に違うので、個々のアンケートは重要です。若い頃は、ヴォイトレが珍しかったこともあり、レクチャーと啓発だけに終わり、研修後の「明日からの改革、実践」に個別に結びつかなかったことがあった点を、よくよく反省してのことです。
出版した本も後日、何年後かにそこまでのレッスンを反映させて加筆して、再版するようにしています。
 
 
●問題点
 
 何せ、昔も今も、私には想定外のところからの依頼が多く、本当に実験と試行の連続でした。先方の担当者も同じです。
 問題点の把握には、いろんな観点があります。実際、複雑に心身が絡んでいるから、とても難しいのです。
把握しても、短い時間で何を優先し、どこを重点的にするのか、全体の利か個人の利かで反することもあるからです。
 
 
●複層の個人レッスン
 
 私は、大人数(トレーナー、生徒とも)で長期の集団レッスンの時期を経て、プロデュースやライブをなくし、トレーナーとクライアントとのマンツーマンのレッスンというシンプルなものにしました。
ただし、以前の集団組織ならではのメリットが反映されるように、2人以上のトレーナーをクライアントにつけた上に、スタッフと私、もしくは、第3のトレーナーがセカンドやサードオピニオンとなるようにしました。
つまり、[私やCトレーナー]×[AトレーナーとクライアントとBトレーナー]です。
トレーナーが2人つくだけでも1人のトレーナーとのクローズな関係よりも多角的に気づけることが多くなります。
 
 
●外からのチェック
 
私もトレーナーとして接する限り、クライアントと同じ土俵(時空、場)に立ってしまいます。それを、外からアドバイザーとしてみる人がいると、客観視できます。
私がレッスンして、それがよいレッスンかどうかは、私も受講者もそれなりに判断しますが、必ずしても正しいとは言えません。当事者ですから、主観的なところから抜けられません。それを外からみてもらうと、より客観的に判断できるということです。
 
 
●伝統芸能のヴォイトレ
 
 私は、能や歌舞伎、落語などのお弟子さんを依頼されたとき、自分だけでどのくらい正しく判断できるのかが、わからなかったので、研究所以外にも私が尊敬していた人たちにもみてもらうように考えました。それを私やここのトレーナーがみる方が研究所としても得るものが多いと思いました。そして、所内のベテランのトレーナーにも交互に見学をさせました。
 
 
●声楽と邦楽のベース
 
何せ、長い歴史をもつ伝統芸能なのですから、一人で扱うにはもったいなかったのです。発声一つとっても、違うとはいえ、慣習として継承されてきたところにある理は、否定しがたいだけのものがあるからです。
もとより、合唱団やアカペラ、ハモネプ、ミュージカルなどでは、声楽畑のトレーナーの方が目指すところが近いので依頼することが多かったのです。
しかし、能、狂言、歌舞伎、邦楽も、より早く多様な方法やその効果を学ぶことを続けています。ベースは、掘り下げたら同じ基礎なのです。
 
 
○レッスンの役割
 
 誰もが主体となっていくレッスンを目指していくと、その主体やテーマを問うことの意味をよく考えさせられます。研修での依頼者、先方の上司とコンテキストの共有も難しくなってきます。
それでも、次の3点を注視しています。
・主体性をもたせること
・覚醒、気づきの必要性
・その後のプロセスリアルにしていくこと
 
 
○リードする
 
 イマジネーションで方向を示して導いていくには、半歩先で、相手を置き去りにしないように気をつけます。 もちろん、先に行かせてしまって遅れてはいけない、そこも計算して待たせて追いつくとか、後に現れるといったことはあるとはしても、原則、自らリードすることです。
 
 
○ヴォイトレのノウハウとレッスン
 
 ヴォイトレを、こうして述べることは、歌い手や役者の声の秘密の種明かしになるのでしょうか。いや、それを全てさらけ出して、すべて伝えたつもりのところで何一つ、相手はできやしないでしょう。
 それで、まねてできるのなら、それでよいと思います。巷の本やYouTubeでのノウハウは、その程度のものです。早くまねしてモノにして、次に進んで、本当の課題につきあたってほしいと思うのです。
マスターして、次が見えないなら、いらないなら、そこで上がりです。その人は、それで目標を達成したので何ら問題ないのです。
全ては必要に応じての程度問題です。
問題がみえたら、あるいは問題があるのが感じられたら、お役にたてると存じます。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?