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セレモニーと微細な領域

微細な領域と肉体の関係

本来、人間は微細な領域と深く繋がって生きているはずで、心が揺れたり、エネルギーが悲しみで震えていたら、肉体がそれをキャッチして体現、表現するようにできています。しかし、現代人は親からの教育や義務教育のトレーニングによって、微細な感情の揺れと肉体を切り離すように癖づいています。だから、自分の本当の欲求や感情に気づきにくくなっているのです。それらは「根性」や「常識」で無視し続けると体にまとわりついているモヤモヤである微細な領域に溜まっていきます。我慢しても無視しても、気づかなくても、それらは自分の一部となっていくのです。


私たちの中にある無意識の抵抗の構造

私たちは自分自身の純化や探求を1人でやっていくこともできます。それらが秘められていた時代、それはこっそりとやっていた方が安全でした。自分自身を純化して、自分自身の望む生き方を貫くことは、政府に対する反逆であり、管理に対する反抗でした。だからそれらを行う個人や団体が強く罰されてきた時代があり、私たちは無意識のうちに本当の信仰政府や常識ではなく、「自然や自分自身を拠り所として生きるために必要なこと」をするということに対して、恐怖と抵抗があります。西洋の支配者層は巧みに宗教を利用し、私たちの祖先から本当の信仰、つまり「自然や自分自身を拠り所として生きること」を奪い取りました。さらには本当の宗教や信仰への懐疑心や、精の領域への不信感を植え付け、私たちを守ってくれていた「信仰」という「微細な領域のプロテクション」を破壊しました。


社会とセレモニーの関係


これに気づくことがまずベースです。私たちの弱さは、私たち自身のせいではなく、(もちろん最終的に選択しているのは私たち一人一人だけれど)社会的に意図的に弱くさせられているのだということを知ると、自分に優しくなれます。私たちは、「意図的に精神を弱らせられている」というこの時代的な緊急事態に対して、対策をとっていいのです。文化的な対策を取る必要がある、といってもいいかもしれません。

私たちの魂を取り戻すために誰かの力を借りていいし、効率的な方法を選ぶ必要がある。セレモニーという集団で行う儀式の場は、人間の「集団」「社会性」という本能を使って、私たちの精神領域を強化する行動です。

共振の力はエネルギーワークのベース

セレモニーでは、共振の力を使って微細な領域にある「今、昇華されたがっている概念」を昇華すると同時に、微細な領域へのプロテクションをつけていきます。純化への祈り、精の領域(目に見えない領域)との繋がりを深めていくために必要なある種のエネルギーを、肉体の周りのその微細な領域に纏わり付かせていきます。それは私たちが1人ではなく、誰かと秘密の時間を共にすることで受け取れる光でもあります。私たちは1人で孤独にそれをやりきる必要はないのです。人間と人間同士の信頼。お互いの中に神を見る関係性。そんな場で発せられるエネルギーは私達のプロテクションとして、私達の周りに纏わりつきます。それはピーターパンに出てくるティンカーベルの周りについているキラキラの粉のように私たちにくっつき続け、守ってくれます。そのキラキラは似た色の光を纏っている人を引き寄せます。同じキラキラを纏い引き寄せあう人々は、新しい概念を纏い、新しい世界を共に創造していきます。

これがセレモニーを通して私がしていることです。

夢をあきらめるプロセスの中にみる概念




これらのことは、しようと思ってしているわけではなく、やっているうちに、自然とこういうことが起こるようになったことです。一年前にセレモニーをやらされるようになって「私は一体何をやっているんだろう?」と見つめ続けてきました。

セレモニーでは「やろうと思ってできること」はほとんどありません。いろんなことが勝手に起こっていき、私は「自動運転でやらされている状態」に入ります。そうなったときがうまくいっている状態です。一年ほどセレモニーを開催し続けて、自分の肉体や意識に起こっていることを観察してみると、このようなことが起こっていたのです

なぜ、こういうことが自然と起こるようになってきたのか、と言ったらきっと元々の性質も大きいと思いますが、ダンス講師として15年以上に渡り、人間の心と体の成長を見守ってきた経験が大きいと思います。小さな子供がどのような心の変化を経ておとなになっていくか、家庭環境や親や教師の言葉によって、どのように夢を諦めていくか、それを見守り続ける中で、子どもの成長と社会との関わりを見つめてこれたことが大きいと思います。また、私自身が自分の性質を活かし切り、仕事を創造できるようになるまでに経たプロセスや、世界中を渡り、シャーマンと出会ったり、深い深いエネルギーワークを通して、変性意識を体験してきたことや、聖なる性を体現した存在と出会い、神聖なエネルギーの流派と繋がることで、一歩一歩純化のプロセスを体験していった、ということにも影響を受けていると思います。

セレモニーを受ける際に「私には大金を払う価値はない」というブロックが出てくることがあると思います。「形が残らないものに対してお金を払いたくない」という概念は日本人には特に強いと思います。形の残らないものへの支払い、それは自分自身に対する投資です。経験は一番の財産であり、何があっても消えない、エネルギーとして微細な領域にまとわりついて残り、あなたを守り、導くものです。

私たち一人ひとりには価値がある。受け取るだけの価値がある。
私の場合は、「ダンス」を学ぶという形のないものに投資をし続け、そして結果として「見えない領域を動かす力」という財産が残りました。過去の投資が育み続けたその財産を使って、今、新しい宝を創造し続けています。
世界中回って、私よりもずっと深く探求し実践している人のサークルに参加し、その経験が私の人生のインスピレーションとなり、今、私を必要な土地に導いてくれています。


セレモニーには本当に人生を動かす力があります。だからセレモニーを通常に取り戻していくべきものだと思っています。意味がわからないような次元を超える経験は日常にもっとあっていいものです。(もちろん危険も伴うので安全な形で)

セレモニーに対して、小さな抵抗が生まれた時、どうか自分の価値を思い出してください。そして「私の精神には栄養を与える価値がある」と、「食物を食べるみたいに、魂の栄養を定期的に受け取る価値があるのだ」と思い出してみてください。

人類が精神の大切さを取り戻していけますように。

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