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生きているならそれでよくない?いいよ。

  6月。ジューンブライドあたりの言葉は大々的には聞かなくなり、レインボープライドという概念が諸手を挙げて輪になっているような昨今。
 それは自分自身よく知っている言葉のはずなのに、「もうそのへんは"世間のもの"になってしまった」と勝手に悲観しているし、なんなら嘲ることばかりがうまくなっている気がしてひたすらげんなりしている。6月。プライド月間。

  テーマパークとかファッションサイトとかが「個性の尊重!」「みんなであらゆる差別に反対する」スタンスをやっているのを横目で見ながら、「そうやって理解に値して認めるに足る存在になって初めてこっちは"見えるもの"になるんか」と冷笑する。正直何の期待もしていない。最先端のアライになる機会が均等に訪れている、そんな世の中なんだろうなというだけ。

  呪いたい気持ちはずっとある。「当事者そっちのけで自らの理解とか活動とかを前面に出したいだけなんじゃない?」と悪し様に言いたい気持ちはつねにある。
 でも、これほどまでに虹色が普及した今、それはあまり許された態度ではない。「せっかく理解が進んでいるのに」と宥める自分もいる。「理解?そうか?」と鼻で笑う自分が勝ってはいるけれど。
 理解や賛同を賜って初めて「それはプライドだよね個性だよね」みたいな認識を付与されるの、申し訳ないけどいらねえに尽きる。

  アイデンティティの名前やラベリングが存在するよりずっと前から生を受けてこれまで生きてきたのに何を今さら、今さらになってそんなキラキラした路線が激化しているのかと首をひねる。個性ってそんなに大事なものなのか、と驚く。
  それが人々や社会や世間の理解、その成果なのかもしれないし、それがエンパワと疑わないなら好きにしてほしい。
「みんなで」というのは自分だって賛成だ。プライドというポジティブ然とした言葉で為すゆるふわ包括じゃなくて、「差別に晒される全員を含めるのはそもそも当たり前だ」という意味では。

  いかんせん人権問題は急務であり最先端、なんならトレンドですらある。「アンテナ」の有無をものすごく見られているし、自分だって見ている。「気にしすぎ」か「鈍感」で常日頃揺さぶられる。
 ただし、それでも、「どこに属するか」あるいは「理解者となるかどうか」あたりで内心とか倫理とかスタンスが測られる、その状況がすげえ馬鹿馬鹿しいなと当事者サイドは思う(たとえば「表明の仕方を間違えばヘイターのレッテルが飛んでくる」とかそういう)。
 差別に反対するからといって無謬ではあり得ないのに、差別に反対する口で「悪いサイド」をこらしめようとする側もごまんといるというのに、そもそも「正しさ」の使われ方すら雑なのに。

  別にそんな、立ち位置如何を頑張らなくていいんだよ、あなたの生活をやってくれ、と心底思う。言うてこの世は資本主義なので「連帯を示すことが生活(稼ぎ)に繋がる」昨今ではあるし、私人や法人や企業各位におかれましてはそれもそれで一つの手なのでとやかく言わないけど。それだって今に始まったことでもないしね、と6月初日で思い直して鼻で笑っています。つくづくめんどくせえ当事者だよ。
  だからこそこちらを顧みなくていい。自らの生活を大事にしてほしい。自分もそうする。どうにか生きていけば、なんらかの形で相見えることもあるでしょう。ここはインターネットなんだし。

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