アナログ派の愉しみ/映画◎本多猪四郎 監督『ガス人間第一号』

その無意味ぶりは
われわれ自身の姿なのかもしれない


馬鹿馬鹿しいと言えば、これほど馬鹿馬鹿しいハナシもあるまい。怪奇空想科学映画と銘打たれた本多猪四郎監督の『ガス人間第一号』(1960年)のことである。しかし、決してただの子どもだましではなく、レッキとした大人の観客向けにつくられており、それが証拠に初公開のときには『金づくり太閤記』というサラリーマン映画(川崎徹広監督)と同時上映された。

 
ざっとこんなストーリーだ。東京・吉祥寺の銀行強盗の現場から逃走した車を警察が追ったところ、五日市街道の人里離れたあたりで犯人を見失ってしまう。近くの屋敷では、日舞家元の藤千代が起死回生の発表会に向けて稽古にいそしんでいた。その後の警察の捜査で、すっかり零落していたはずの藤千代が最近にわかに金回りのよくなったことが判明し、強盗事件との関連を取り調べるため拘留することに。そこに登場したのがガス人間の水野だ。かれはみずからが真犯人だと告げると、捜査陣を従えて銀行へ現場検証に向かい、衆人環視のもとで全身を気体に変化させるなり金庫に侵入してふたたび現金を奪って、銃撃などものともせず空中を飛び去っていった……。

 
この水野という男はもともとまじめな図書館の事務員だったが、マッド・サイエンティストに誘われて肉体改造の実験に協力し、予想外のアクシデントからガス人間に変身できる能力を身につけてしまったとされる。こうした設定は、どうしたって『ジーキル博士とハイド氏』を思い起こさせずにはおかない。スコットランド出身のロバート・ルイス・スティーヴンスンが1886年に発表した小説をもとに、これまで70回ほども映画化されたというこのゴシックホラーは時代や国境を超えて多くの人々の心を奪ってきた。ひとりの人間のなかに善良と凶悪のふたつの人格が並存するというストーリーに、おそらくはだれもが自分を重ねたからに他ならない。この『ガス人間第一号』もその流れにつらなるヴァリエーションだ。

 
ただし、決定的な相違点がある。スティーヴンスンは原作のなかで、初めて薬品の力でハイドに変身したときの経緯をジーキル博士にこう分析させているのだ。

 
「思うに、あの夜、私は運命の十字路に立たされていた。私がもっと崇高な精神から自分の発見に接近していたならば、つまり、もっと高貴な、あるいは敬虔な理想に促されてあの実験を試みたのであれば、結果はまったく異なっていたに違いない。死と生の苦悶をへてあらわれるのは、ハイドのごとき悪鬼ではなく、正反対の天使であっただろう。薬品そのものに区別の作用があるわけではない。薬品は悪魔的でも神々しくもない。単に私の性質を閉じこめている牢獄のドアをゆさぶるだけなのである」(海保真夫訳)

 
すなわち、ジーキルとハイドの人格分裂は倫理的な問題であり、キリスト教の神を前にしての善と悪の相克のドラマであったからこそ、最後には双方の人格がたがいに殺しあって自滅していくのだ。ところが、戦後の日本社会に誕生したガス人間はふたつの人格を有していてもたんに肉体上のことだけで、そこには神を前にした善悪の葛藤など存在しなかったから、ハイドのほうはたとえ醜怪でも人間のなりをしていたのに、こちらはただの気体になってしまったのだ。そして、水野が「ぼくは自由に消えたり現れたり、どんな偉い奴でもその気になればいつでも消せる。でも、そうなると何も欲しくないし、殺したいとも思わないな」とうそぶくとおり、これだけの能力があっても、せいぜい恋情を寄せる藤千代のために銀行強盗を働くぐらいのことしかやらない。

 
水野に扮したのは、こうした特撮映画で不気味な存在感を発揮する土屋嘉男で、もう一方の、相手の男がモンスターで、どうやら犯罪で手に入れたものらしいと察しながら、その大金を受け取って悲願の発表会を開く藤千代は、2019年に逝去した八千草薫が演じている。当時まだ20代だった彼女をこのキワモノの役柄がいっそう引き立てたのか、あまりの妖しい美しさには言葉を失うほど。かくて発表会の当日、警察が謀って会場に可燃性ガスを送り込むなかで、藤千代はステージで水野ひとりのために舞ったあと、その胸に身を投げ、手にしたライターを点火してともに爆死を遂げる……。

 
神なき日本の風土に現れたふたつの人格の持ち主は、善とも悪ともかかわらないまま、ただ無意味に消え去るしかなかったのだ。怪奇空想科学映画のハナシだろうか。ことによったら、その無意味ぶりは、とっかえひっかえあれこれの人格を持ち出しながら日々をやり過ごしているだけの、われわれ自身の姿なのかもしれない。

 

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