アナログ派の愉しみ/音楽◎ラヴェル自作自演『ボレロ』

それは思うに任せない人生の
永遠の輝きを伝える音楽なのだ


なんなんだ、これは? と耳を疑った。フランスの作曲家、モーリス・ラヴェルが自作の『ボレロ』を指揮して演奏した記録。だらしないリズムで、同じ旋律がメリハリもなく連なっていく……。ひと言で評するなら、退屈のきわみだ。

1928年に発表されたこの管弦楽作品は、だれしも耳にしたことがあるに違いない。至ってシンプルな構成だ。小太鼓がスペイン舞曲のリズムを刻むのに導かれて、ふたつの旋律がそれぞれ8回ずつ計16回繰り返されるだけというもの。しかし、フルートのソロで始まり、次々と楽器に受け渡され、オーケストラ全体が咆哮するまでクレッシェンドしていき、最後に一気に雪崩落ちるようにして結ばれるさまは、しばしばセックスにも譬えられ、実際、平静な心境で聴きとおすことはできないだろう。

あまりにもめざましい効果は、「管弦楽の魔術師」と呼ばれたラヴェルの面目躍如たるもので、これまで多くの指揮者やオーケストラがこぞって録音してきた。のみならず、本来、バレエ音楽として作られただけに、舞台、映画、テレビから、フィギュアスケートや大晦日のカウントダウンにも活用されて、華々しい音響を撒き散らしている。だからこそ、作曲者自身のタクトとコンセール・ラムルー管弦楽団による録音(1930年ごろ)を聴いたときには、戸惑ってしまったのだ。何が起こっているのか? いやむしろ、起こっていないのか?

ラヴェルという人物は、ことのほか背が低かったようだ。わたしも小学生のころまではチビだったので、よくわかる。男にとってチビとは、恐らく最も強い劣等感をもたらすということを。幸いにも中学生になった時分から急速に背が伸びて人並みの身長を得たが、そのときの安堵感をいまだに覚えていたり、いまだに自分が小さくなって周囲の連中を見上げている悪夢にうなされたりするのも、かつてのトラウマと言えようか。

まあ、自分のことはいい。ラヴェルについて言えば、ときあたかも第一次世界大戦の勃発にあたり、何としても軍務につきたいと執拗な意欲を漲らせたのも、その劣等感に由来するものに違いない。さんざん当局に断られたあげく、かろうじて軍用トラックの運転手に採用されると勇んで、ことさら危険な戦場を走り回ったといわれている。また、のちに音楽家として名を馳せてからアメリカへ演奏旅行に出かけた際には、パステル色のワイシャツを50枚持参しておしゃれに努めたりしたのも、同じ心理が作用したものだろう。だが、そうやって懸命に背伸びをして、コンサートや社交界では人気を博したものの、短身痩躯の天才の前についに愛をわかちあう女性は現れなかったようで、終生独身を余儀なくされている。

そんなラヴェルは『ボレロ』に関して「管弦楽の扱いは簡素かつ明快で、名人芸をめざしたところは微塵もない」と語り、オーケストラはやがてこの曲を演奏するのに飽きてしまうと考えていたらしい。なるほど、作曲者にとっては退屈こそがこの曲のあるべき姿だったのだ。それをドラマティックに、エキサイティングに、セックスに譬えられるかのように演奏しては意図に反するのだろう。


自作自演の録音を行って間もなく、ラヴェルは交通事故に遭って脳に障害を負い、作曲や演奏の活動はむろん、手紙ひとつ書くことさえ覚束なくなっていく。そして1937年、著名な脳外科医のメスによって開頭手術を受けたものの失敗に終わり、落命した。その62年間の生涯は終始、思うに任せないものだったろう。神ならぬ身であればみずからの宿命をどうしようもなく、ひたすら単調な繰り返しの退屈に耐えながら生きていくしかなかった。そうした思うに任せない人生もまた、永遠の輝きのもとにあることを『ボレロ』という曲は伝えているのだ。


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