アナログ派の愉しみ/音楽◎ブルックナー作曲『交響曲第7番』

それは禅と音楽の
対話だったのか


「ブル七やいかに」
「チェリなり」

 
禅問答に擬するならこんな具合だろう。ブル七とはブルックナー作曲の『交響曲第7番』で、チェリとはルーマニア出身の指揮者セルジュ・チェリビダッケの略称、というより、日本のクラシック音楽ファンの一部でのみ通用する符丁といったほうが適当かもしれない。つまり、上記の対話は「ブルックナーの『交響曲第7番』でいちばんお気に入りの演奏はどれですか?」との問いに、「チェリビダッケが指揮したものです」と答えたという内容で、禅問答らしく見えるだけのことだが、もっとも、この単刀直入の回答をくれたのは実際に禅のお坊さんだった。

 
わたしが懇意にしている老師(禅では年齢にかかわりなく指導者を指す)はクラシック音楽にも造詣が深く、四方山話のなかでそんな質問を発したのは、ブルックナーがワーグナーを追悼しながら1883年に完成させたこの作品こそ、史上最も美しい交響曲じゃないか、とひそかに思うところがあったからだ。チェリには、シュトゥットガルト放送響やミュンヘン・フィルを指揮した同曲のレコードも存在するけれど、そのとき真っ先に思い浮かんだのは名門中の名門、ベルリン・フィルと組んだ演奏だった。これにはドキュメンタリーの映像記録もあるため、老師の言葉をきっかけにあらためて鑑賞してみた。

 
第二次世界大戦がドイツの敗北をもって終わった翌年、ベルリン・フィルは首席指揮者に音楽大学を卒業したばかりのチェリを迎え入れた。というのも、戦前からこの栄えあるポストを占めてきたウィルヘルム・フルトヴェングラーがナチ協力の嫌疑によって活動を禁止され、また、暫定的な後継者となったレオ・ボルヒャルトが路上で占領軍のアメリカ兵に誤って射殺されてしまい、その空席を急遽埋める必要に駆られたからだ。チェリは降って湧いたチャンスをものにして聴衆の人気を勝ち取り、やがて復帰したフルトヴェングラーと指揮台を分けあって6年間に414回の演奏会をこなしたものの、不遜な性格が祟って次第にオーケストラとのあいだに不和が生じ、1954年にフルトヴェングラーが没してヘルベルト・フォン・カラヤンが跡を襲うと完全に関係を断たれる。以降はヨーロッパ各地のオーケストラを転々としながら、セッション録音は断固拒否して(したがって、現在耳にできるのはすべてコンサートの実況録音)、ますます狷介不羈の指揮者人生を辿るうち、いつしか幻の巨匠として独特のカリスマ性をまとっていった。そして、カラヤンの死を待っていたかのように、1992年にドイツ大統領ヴァイツゼッカーの提案によりルーマニア孤児救済ガラ・コンサートの名目で、38年ぶりのカムバックが実現する。

 
ドキュメンタリーには、ベルリンのシャウシュピールハウスで3月31日と4月1日に行われた演奏のライヴ映像に加え、かなりの時間のリハーサル風景も収録されていて滅法面白い。かつて交わった当時とはすっかり世代変わりした楽団員を前にして、自分の知るかぎり、フルトヴェングラー亡きあと、このオーケストラがブルックナーの本質に迫る演奏をしたことがない、と言ってのける。すなわち、長らく君臨したカラヤンとその同僚たちへの全否定の弁からはじまるのだ。

 
ブルックナーのすべての交響曲に特徴的な、第1楽章冒頭の「原始霧」と称される弦楽器群のトレモロに取りかかったとたん、タクトを振ってはNG、タクトを振ってはNGが連発される。チェリはギョロ目をひんむき、頬をふくらませて、ぜひとも色彩感のあるトレモロが欲しい、オーケストラ全体で雰囲気を醸成することが必要という。そのためにはひとりひとりのプレイヤーが異なった波長で弾き、それぞれの波長がまばらになるところに密度が生じると論じて、目を白黒させる楽団員に対してさらに畳みかける。

 
「一拍目の合図を待っているのでしょうが、合図はしません。無から音が生まれるように弾いてください。遅れてもかまわない、正しい雰囲気を探してのことですから。それを求める者だけが見つけられるのです、まあ、まだあればの話ですが……」
「音符以上のものを理解できるかどうかということ。音符だけではどうにもならない、それ以上のものが必要です。重要なのは、他のひとと同調すること。同調するとはほとんど定義不可能ながら、私は、最後の一音が最初の一音の論理的帰結だということをみなさんといっしょに実現したい。換言すれば、終わりは始まりのなかにある。まだ形にはなっていないが、可能性としては存在するのです」

 
まさしく禅問答だろう。このブル七の特別演奏会はチェリが80歳のときで、以後二度とベルリン・フィルの指揮台に立つことなく、4年後に他界する。晩年のかれは仏教に改宗して、禅に深く傾倒していたことが知られている。
 

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