アナログ派の愉しみ/音楽◎ビゼー作曲『カルメン』

つくづく噛みしめたものである、
決して侮ってはならない、と――


史上最も人気の高いオペラといえば『カルメン』だろう。

 
メリメの小説をメイヤックとアルヴィが脚色した台本に、ジョルジュ・ビゼーが心血を注いで作曲した全4幕のこのフランス・オペラは、1875年3月にパリで初演されたものの不評に終わり、失意のビゼーは3カ月後に36歳で世を去った。ちなみに、ドイツではワーグナーが26年がかりで超大作『ニーベルングの指環』を完成した翌年の出来事だ。その後、友人の作曲家ギローらの尽力によってウィーンで再演されてからは各地のオペラハウスの定番レパートリーとなり、また、オーケストラのコンサートでもふたつの組曲版が親しまれて(一般的な管弦楽組曲でオペラに由来する作品は他にあまり見当たらない。R・シュトラウスの『ばらの騎士』とブリテンの『ピーター・グライムズ』によるものぐらいか)、世界じゅうでダントツの演奏頻度を誇るオペラであることは間違いない。

 
その人気の理由はなんと言っても、スペイン情緒を大胆に取り込んだ音楽のインパクトにあるだろう。奔放不羈なジプシー(ロマ)の美女カルメンと、その誘惑によって軍隊を脱走した青年ドン・ホセとの激しい愛憎のせめぎあいの果てに、舞台上で刃傷沙汰が演じられるというストーリーでありながら、輝かしい前奏曲に加えて「ハバネラ」「セギディーリャ」「闘牛士の歌」などの有名なアリアが次々に繰り出されて心弾ませる。つまり、初めてオペラが取り上げた三面記事まがいのドラマを、魅力的な音楽がオブラートにくるんで現実離れした絵空事に感じさせてしまうため、家族ぐるみの善男善女でも安心して鑑賞できる半面、この作品の限界にもなっていると思うのだ。

 
わたしが好む『カルメン』の記録は、スタジオ録音ではマリア・カラスが題名役をうたったCD(1964年)であり、ステージ映像ではカルロス・クライバーが指揮したウィーン国立歌劇場のDVD(1978年)である。どちらも歴史的名盤として知られ、カラスがキャリアの終盤に差し掛かって万感の思いを込めた誇り高いカルメン像も、クライバーのタクトが煽りに煽って熱狂を炸裂させた舞台もあまりに素晴らしく、どうしても他の『カルメン』は色褪せてしまうのがつねだ。しかし、両者でさえストーリーと音楽のあいだには乖離があって、やはり健全な音楽劇の枠から出ていない。結局、この作品はそうした二重構造で成り立つものと理解したわたしは徐々に遠ざかり、むしろ神々の邪悪と人類の愚劣をひたすら追求する『ニーベルングの指環』のほうに親しんでいった。

 
だから、ごく最近、英国ロイヤル・オペラ(コヴェント・ガーデン歌劇場)が2007年に上演した『カルメン』の記録に接したのも、他の演目を目当てに入手した大部なDVDセットのなかにたまたま含まれていたからだ。これが驚天動地! パッパーノの指揮のもと、カルメンにアンナ・アントナッチ、ドン・ホセにヨナス・カウフマンが扮し、フランチェスカ・ザンベッロの演出によって行われた舞台映像を前にして約2時間半、身動きもままならなかった。ひと言でいえば、美を剥ぎ取った男と女のエゴイスティックな愛欲模様。ふたりは初めて会ったときから宿命に呪われ、「ハバネラ」も「闘牛士の歌」も蹴散らして、まっすぐ奈落の底へと転げ落ちていく。

 
「おお、カルメン、お前を救わせてくれ、俺の愛するお前を!」
「いいえ、わかっているわ、あんたが私を殺すってことはね!」

 
フィナーレの血なまぐさいやりとりが、これほど真に迫って再現されたことがあったろうか。あたかもこの瞬間、おたがいの指先がまさぐりあいながら、ついに禁断のエクスタシーに達したかのようだ。とても子どもに見せられるもんじゃない。最後の和音が鳴りわたって客席から喝采が湧き起こるなか、わたしは茫然としたあまり、カーテンコールで両者がにこやかに手を取りあって挨拶する姿が信じられないほどだった。つくづく噛みしめたものである。『カルメン』を決して侮ってはならない、と――。


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