アナログ派の愉しみ/音楽◎チャイコフスキー作曲『悲愴』

雑誌『レコード芸術』の
休刊の報に接して


音楽之友社の月刊誌『レコード芸術』(以下、本誌)が本年7月号をもって休刊するとの報に接して、思わず「わっ」と声をあげてしまった。大学時分にクラシック音楽にのめり込んでから20年あまり、毎月発売日に書店で買い求めてむさぼり読むのが習慣となっていた。やがて関心の対象が国内盤から海外盤にシフトし、購入先もネットショップに移行するにつれ、本誌の情報とのあいだにギャップが広がって縁遠くなったとは言え、いざ姿を消してしまうとなると、身体の一部を切り取られるような痛みを感じないではいられないのだ。

 
したがって、ここ数年はとくに惹かれた特集のものだけを手にしてきたのだが、そのひとつに2017年5月号がある。ちょうど創刊800号を迎えたこの号は、記念特集「『レコード芸術』の過去・現在・未来」という、いまになってみると皮肉な記事内容だったのだが、わたしが興味を持ったのは、むしろ付録として添えられた本誌の創刊号(1952年3月号)のレプリカだった。太平洋戦争の終結後7年目の出版物だけにごく簡素なつくりながら、そこには戦時下に不自由だったクラシック音楽鑑賞をいまや存分に行えることへの歓喜が漲っていて、こちらまで口元がほころぶ。

 
表紙は、アルトゥーロ・トスカニーニの肖像画だ。祖国イタリアのファシスト政権に背を向けアメリカで活動してきた名指揮者が創刊号を飾ったのは、看板企画の新譜月評が最初に取り上げたのが、かれとNBC交響楽団によるチャイコフスキー作曲『悲愴』のレコードだったからだ。評者は木村重雄。その文章が「ぼくはチャイコフスキーが嫌いである」とはじまるのは、本誌の辛口批評の出発点を見るようで嬉しくなってしまう。さらに続けて、自分はチャイコフスキーの大袈裟な自己主張や泥臭さにいたたまれない思いがするが、トスカニーニであれば別のチャイコフスキーを聴かせてくれるかもしれない、と期待を示してから、このレコードの試聴記へとつなげる。

 
「いま、ぼくの耳のそばで鳴っている『悲愴』は、まさにそれを裏切らない、すっきりした快いひびきである。前に挙げたような後期ロマン派に特有の世紀末的な手ばなしの感傷とか、スラヴ的な泥臭さなどは明快な棒の前に鮮やかに払拭され、『悲愴』ならざるチャイコフスキーの名作『第六交響曲』が、五線紙にとどめられた通りに鳴っている」

 
このピョートル・チャイコフスキー最後の交響曲(1893年)については、作曲者自身が「悲愴」という思わせぶりな名称を与え、虚無のかなたに消え入るような異例のフィナーレを持つうえに、しかもみずから初演の指揮台に立ったチャイコフスキーそのひとがわずか9日後に急死したことからさまざまな憶測を呼んだ。そして、メンゲルベルクやフルトヴェングラーといった往年の指揮者たちがいかにも重苦しい情念を込めて演奏してきたなかで、まさにアンチテーゼにふさわしい、明晰な知性の管理にもとづくレコードが現れたことを木村は宣言しているのだ。

 
かくして、本誌が主導したレコード批評の分野では、このトスカニーニのモノーラル録音が長らく、ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルやカラヤン指揮ベルリン・フィルのステレオ録音と並んで、『悲愴』の歴史的名盤の一角を占めてきたと思う。かく言うわたしも、小遣いをはたしてこのレコードをLPで買い、CDに買い直し、繰り返し耳を傾けては「なるほど、ザッハリッヒな演奏だ」としたり顔で頷いたりしたものだ。

 
ところが、つい最近出た『レコード芸術』の編集になるムック『新時代の名曲名盤500+100』(2023年1月)を眺めて唖然とした。これは本誌上で2020~22年に常連寄稿者たちが作品ごとに推薦盤の投票を行った集大成なのだが、チャイコフスキーの『悲愴』のランキング・リストにはトスカニーニの影も形もなく、トップに選出されたのはギリシア出身の指揮者、テオドール・クルレンツィスとアンサンブル・ムジカエテルナによる2015年録音のレコードだった。わたしには未知の存在だったので、さっそくCDを入手してプレーヤーにかけてみると、そこから流れてきたのは重苦しい情念や明晰な知性の管理とはまた異なり、この交響曲に芝居気たっぷりな強弱緩急の演出を持ち込んで、あたかもギリシア悲劇のように賑々しく再現してみせた演奏だった。

 
なるほど、雑誌『レコード芸術』の70年あまりの歴史を『悲愴』の録音で辿るなら、あのトスカニーニからこのクルレンツィスへと至る遠い道のりだったわけか、とわたしはほんの少し得心したのである。

 

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