アナログ派の愉しみ/映画◎コッポラ監督『ゴッドファーザー』

そこに描かれた多層的社会の実相に
いまこそ学ぶべきではないか


フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972年)でとくにショッキングなのが、序盤に描かれるつぎのエピソードだとは衆目の一致するところではないだろうか。

 
フランク・シナトラがモデルとされるハリウッド・スターが新人女優に手を出して前途をぶちこわし、そのことを根に持ったプロデューサーによって希望する映画への出演が拒まれる。かれは自分の名付け親であるマフィアのボス、ゴッドファーザーに泣きついて仲介を頼み、その指令で派遣された配下がプロデューサーに善処を申し入れたものの、相手は所有する名馬の自慢をするばかりで取りつく島もない。その深夜、プロデューサーが目覚めるとベッドは血の海で、足元に持ち馬の切り取られた首を見出して絶叫する。かくして、スターは希望の役を手にした……。

 
この作品ではマフィアの勢力争いをめぐって暴力や殺人のシーンがふんだんに出てくるのに、とりわけ「馬の首」事件がわわれわれの神経を逆撫でするのはなぜだろう? おそらくは、ギャング同士の流血沙汰はいかに凄惨であっても世間一般のモラルにもとづき、だからこうした反社会的勢力とは無縁な善男善女もそれなりに登場人物たちに感情移入できるわけで、ところが「馬の首」事件にかぎっては世間一般のモラルと断絶があり、およそ感情移入のしようもないだけに、観客はベッドの上のプロデューサーと同じく底知れない恐怖に囚われるのだ。

 
マーロン・ブランドが扮した初老のゴッドファーザーは「家族を大切にしない奴は男じゃない」と断言する。その根底に横たわっているのは、イタリア・シチリア島出身のみずからが率いるファミリーは独自のモラルのもとで結束し、優先されるべきは世間一般のモラルではなくファミリーのモラルであって、もしその紐帯を共有できないのなら血族であっても裏切り者として抹殺するという論理だ。

 
この『ゴッドファーザー』と前後して、日本でも反社会的勢力の実態に迫る映画が公開されてセンセーションを巻き起こした。深作欣二監督の『仁義なき戦い』(1973年)である。太平洋戦争の終結から四半世紀が経過し、それぞれに戦後体制から脱却しようとするタイミングで、みずからの社会のダークな領域に目を向けざるをえない必然性があったのだろうか。

 
原爆の惨禍に見舞われた広島を舞台とするヤクザのドラマにおいて、ゴッドファーザーにあたる組長とそこに集った組員の関係はやはり家族に譬えられている。むしろ盃を交わした仲のほうが血縁以上に濃いとされるのだが、しかし、おたがいをつなぎとめるものはしょせんカネでしかない。だから、金子信雄が演じる組長は上納金を私物化して、若衆が不平を唱えると開き直って「子が親にゼニを出し渋る極道がどこにおるんだ!」と怒号を浴びせて憚らない。つまり、反社会的勢力を支える内部のモラルも、ひっきょう世間一般のそれと等しいことが明かされているのだ。

 
マフィアのファミリーとヤクザの組との、このモラルをめぐるきわだった対照は何に由来するのか? 前者がアメリカというさまざまな肌の色や言語・文化・宗教の違いを抱えた社会のなかで、反社会的勢力がおのれの出自をよすがに世間一般と対峙していくときに否応もなく形成される特質とするなら(その過程は『ゴッドファーザー PARTⅡ』でより詳しく描かれる)、後者はとりあえず似たり寄ったりの肌の色、言語・文化・宗教によって成り立った社会のなかで、反社会的勢力が世間一般と対峙するときにも否応もなくその土台に立脚せざるをえない事情を物語っているのだろう。

 
そして、こうした対照はマフィアとヤクザが生業とするギャンブルにも反映して、ふたつの映画は、前者のカジノと後者の賭場のありさまをこう描いてみせる。カジノは社会に開かれた明るいホテルで堂々と開かれ、その背後で血なまぐさい暗闘が行われるのに対して、賭場は社会の目を盗んで暗がりでひそやかに開かれるものの、せいぜいイカサマをめぐって殴り合いの喧嘩が起きるぐらいだ。両者の懸隔はあまりにも大きい。目下、大阪や長崎でカジノを含むIR(統合型リゾート)の誘致が取り沙汰されているけれど、ギャンブル依存症対策の議論などより先に、アメリカの多層的社会が生んだ装置であることを踏まえての「文化人類学」からの考察が必要なはずだ。先年の中国ゲーム企業「500.COM」をめぐる政界汚職事件など氷山の一角でしかあるまい。

 
いまこそ『ゴッドファーザー』に学ぶべきではないか。

 

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