アナログ派の愉しみ/映画◎高峰秀子 主演『二十四の瞳』

腐れ縁に生きたゆき子は
大石先生のもうひとつの顔か


「二十四の瞳なんて、ヘンな題だな、まさか怪奇映画じゃなかろうか?」

 
木下恵介監督から出演依頼の連絡があったとき、高峰秀子はとっさにそんな疑問を抱いたと自伝『わたしの渡世日記』(1975年)のなかで書いている。今日では、壺井栄の原作は全国津々浦々の図書館に備わっているだろう基本図書だし、木下監督による映画のほうも日本映画ベストテンといったリストには必ず挙げられる名作中の名作だけれど、実のところ、この映画の企画が持ち上がったのは原作の小説がキリスト教系の雑誌に発表されたばかりの1952年のことで、まだ高峰にかぎらず世間の人びとにとって見ず知らずの物語だったのだ。

 
当初、子役たちの学校が休みの8月に撮影するつもりで、舞台となる小豆島へロケハンに出かけた木下監督から、あわただしく高峰のもとへ電話が入る。「秀チャン、たいへんですよ、夏の小豆島で撮影なんかできやしません、暑くって暑くって……。子供たちがみんな焦げて病気になっちゃいますよ、ロケは一時延期しますからね、じゃ、サヨナラ」。かくして翌年の春に撮影がスタートし、1年あまりの期間をかけて1954年に完成する。つまり、小説と映画はほぼ時を同じくして誕生した双子の関係で、映画がヒットしたことで小説が広く知られ、また、小説が読み継がれることで映画も長らく上映されるという相乗作用により、ともに現代の古典としての地位を確立していった。

 
ただし、小説と映画の表現方法の違いのゆえだろう、小説の群像劇から映画では高峰が演じる大石先生の半生記へとヒロインのウェートが極大している。したがって、かつての恩師と教え子たちが料理屋で再会を果たしたクライマックスの場面で、女将のマスノが「海千山千」と口走ることも、盲目のソンキが一本松の写真を指差すのにみなが相槌を打つこともなく、代わりに床の間には教え子の贈り物の自転車が飾られ、ラストシーンでは大石先生がこの自転車で明日へと走っていく姿を遠望して結ばれている。当時28歳だった高峰は、時代の荒波のなかで悲しみにくじけず子どもたちを抱擁しようとする大石先生の20代から40代までを演じ抜いて、まさに代表作というにふさわしい。

 
その高峰には、自他ともに認めるもうひとつの代表作がある。『二十四の瞳』に続いて、林芙美子の原作にもとづき成瀬巳喜男監督のメガホンで制作された『浮雲』(1955年)だ。ここでの高峰は、戦時中に農林省のタイピストとして仏印(ヴェトナム)の事務所で働くゆき子の役で、その職場で出会った妻子ある技官の富岡(森雅之)と心ならずも情を交わし、戦後に帰国してからは、口先だけで妻と別れるという相手と諍いを起こしたり、やっと見切りをつけてパンパン(米兵相手の娼婦)になったり、そしてまたぞろヨリを戻したりと、孤独と飢えが支配する荒んだ世相を背景に文字どおりの腐れ縁がえんえんと描かれていく。高貴な雰囲気をまといながら、その実、とめどなくだらしない中年男をやらせたら右に出る者のない森雅之の演技が絶品で、わたしも不穏な共感に胸騒がせるうち、ふたりはついに屋久島まで流れていってゆき子は命を落とす……。

 
愛に殉じた、と言えば聞こえはいいけれど、それもしょせん女の業でしかない無意味な生きざまを無意味なままに演じなければならない。この役のあまりの難しさに高峰もいったんは降板を考えたらしいが、「ここまで来ては仕方がない。演(や)るだけ演って自爆しよう。あとは野となれ山となれ」と腹をくくって撮影に臨んだと先の自伝で回顧している。

 
このふたつの映画を眼前にして、わたしはともすると大石先生とゆき子が重なって見えてくるのを抑えようがない。それは、高峰が双方の役を兼ねているからにせよ、かたや自分のかけがえのない教え子たちが戦場に命を散らし、銃後の悲惨な暮らしに沈むのを見つめてなす術もないまま、その悲しみの彼方の希望へと歩んでいく。かたや不毛な不倫関係を引きずってやはりなす術もないまま、アリ地獄の底でもがくように無意味に人生の終止符を打つ。一見真逆のように見えるそれぞれの顔つきは、どちらも日本の未曽有の敗戦体験が女性に強いたやむにやまれぬものだったのではないか。両者は自己の宿命にあくまで真剣だったはずである。

 
不世出の大女優・高峰秀子は、大石先生のなかにもひそかにゆき子が棲んでいたと教えているように思うのだが、どうだろうか?
 


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