アナログ派の愉しみ/映画◎ブルース・リー主演『燃えよドラゴン』

究極の技とは「型」を持たないこと――
かれが残したメッセージの真意は


イギリスの映像作家ジェリー・アンダーソンが制作した人形劇によるTVドラマ『サンダーバード』全32話(1965~66年)は、かつて日本でもNHKなどで繰り返し放映された。時代設定は21世紀のなかば、科学者で大富豪のトレイシーと5人の子息たちによって国際救助隊が結成され、南洋の孤島を秘密基地としてサンダーバード1号(超音速ロケット機)から5号(宇宙ステーション)までをはじめ、各種の最新鋭メカを備えて、地球上のどこであれ事故や天災で人命が危機に瀕すると現場へ駆けつけるという筋立てで、毎回趣向を凝らしたスリリングな救出劇をわたしも手に汗握って見守ったものだ。

 
いまにして振り返ってみると、世界各地をドラマの舞台としながら登場する人形たちが白人ばかりだったのは、当時の欧米のテレビ事情を考えれば目くじらを立てるほどのことでもないのかもしれない。もっとも、そうしたなかにあってひとりだけ、アジア系の怪人物が存在する。国際救助隊の活動を邪魔立てするこの男はザ・フッドと称して、浅黒い肌を持ち、禿げ頭に濃い眉とギョロ目といういかつい顔立ちで、その両眼が光を放つと相手は催眠術にかかってしまう。ふだんは東南アジアの山中らしい秘境に住み、けばけばしい神殿で悪の力による世界支配を祈祷している……。

 
そんなエピソードを思い出したのは、ブルース・リーの死からちょうど50年目を迎えると知って、久しぶりにかれの主演作『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督、1973年)を観たからだ。ストーリーが進むにつれ、この年齢になったわたしでさえふたたび腹筋のあたりにエネルギーが漲り、つい「アチョー!」と奇声を発したくなったのも、さすがカンフー映画の金字塔ならではパワーだろう。

 
ハリウッドに誕生した初のアジア人の大スター、ブルース・リーが扮する少林寺拳法の達人リーは、アメリカの諜報機関の要請を受けて香港近海の孤島へ向かう。そこは同じ少林寺出身ながら破門されたハンが所有するもので、表向きは各種武術のトレーニングセンターとして開放しながら、裏ではひそかに麻薬密造や人身売買に手を染めて世界の闇市場の支配を企てているという。ついては、この島で3年に1度開催される武芸大会にリーが参加して、ハンの野望を木っ端微塵に粉砕するのがミッション……と、まあ、あまり鹿爪らしく論じるまでもない筋立てではあるけれど、しかし、わたしはつぎの場面で思わず唸ってしまった。リーをはじめ世界じゅうから腕自慢の男たちが島に乗り込み、明日は武芸大会が幕を開けるという夜、ハンはかれらを歓迎する祝宴を開くのだが、そのけばけばしい雰囲気がくだんのザ・フッドの神殿とそっくりではないか!

 
つまり、こうした事情だろう。19世紀から20世紀前半にかけて欧米の白人国家で猖獗をきわめた「黄禍論」がなおも尾を引くようにして、『サンダーバード』が描く未来のビジョンにも影を落とし、『燃えよドラゴン』でも白人と黄色人の対立の構図が持ち込まれたうえで、リーは白人国家の側に立って、アジアのけばけばしくも不気味な魔手を挫くという役割を担った。その意味では、ザ・フッドやハンと、かれは正反対のベクトルにあるように見えるが、(1)そもそも白人と黄色人はまったく別の存在であり、(2)白人にとって黄色人は、それが悪の権化であれ正義のヒーローであれ、突拍子もない異形の者として立ち現れる――の2点においては、三者とも軌を一にしていたのだ。

 
かくて、あの言語を圧倒するかのようなカンフーの超絶の妙技をもってしても、「黄禍論」という世界理解の型に呪縛された白人と黄色人の関係に対して、ついに風穴を開けることができなかったのだろうか? 実は、映画の冒頭のシーンにおいて主人公は武芸の心得に託して、はなからその問いに回答を示していることに今度気づいた(かつて観たバージョンではカットされていた可能性がある)。

 
「究極の技とは『型』を持たないことです。どこにも敵などいません、『私』が存在しないのですから。優れた闘いとは遊戯のようなものであり、だからこそ真剣に闘うべきものです。優れた武道家は緊張を解いても油断しません、無心になっても虚ろではありません。敵が押せば引きますし、引いたら押します。好機が訪れても『私』は攻撃しません、流れに従うまでのことです」

 
ワシントン大学で哲学を修め、高校で哲学の講義をした経験もあるブルース・リーは、このセリフにひときわこだわったと伝えられている。そして、撮影終了後、脳浮腫のため昏睡状態に陥り、そのまま32年の人生を閉じたのである。

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