アナログ派の愉しみ/本◎上野千鶴子 著『スカートの下の劇場』

男子の精通が
永遠に社会化されないワケ


精通を見る――。それは男子にとって一体、どんな価値のある体験なのだろう? 女子の初潮については、かねて赤飯を炊いて祝うという風習があったり、堂々と文学や映画・ドラマに描かれたりもして、社会的位置づけがされてきたのに対して、男子のほうの出来事に関してはさっぱり注意が払われないのが不可解だ。

 
こうした疑問を持っていただけに、最近になって、上野千鶴子の旧著『スカートの中の劇場』(1989年)をひもといたときには腰が抜けるくらい驚いた。女性の下着のめくるめく世界を手がかりとしてセクシュアリティの内奥を論じたこの本のなかで、つぎのような記述を見つけたからだ。

 
「下着の選択と管理が母親の支配のもとにあって、それが性器の管理につながる、というのは、男の子の場合も同じだと思うのです。むしろもっと強いでしょう。女の子の初潮に対応するものに、男の子の場合は、たとえばオナニーや夢精があります。性的な分泌物で下着が汚れる場合があります。第二次性徴以降、そういう徴候が徐々に出てくるのですが、その秘密を握ってしまうのは母親です。ですから、男の子のほうがもっと疎外が深い。つまり自分の下着を自分で洗っちゃいけないという禁止がありますから、汚れた下着をどんなことがあっても母親に渡さざるをえないのです。いつ何が起きたか、母親は全部知っています。これはほんとうに怖い、徹底した性器の管理です。そういう性器の周辺に生じてくるいろいろな変化を、モノとしてのパンツがすべて表現してしまいます」

 
ここに書かれているのは、まさに自分自身の身に起こったことだ。わたしは15歳のときに初めての夢精で精通を見たのだけれど、朝になると、母親があたかも察知していたかのようにやってきて、ひと言も口をきかず、ベッドの下に隠しておいたパンツを拾い上げて洗濯へ運んでいったのを思いだす。なるほど、こうして男子の精通が社会化される道は閉ざされていたわけか。

 
あのときの経験からして、もうひとつ社会化を阻む要因が思い当たる。と言うのは、夢精なる生理現象には必然的に夢がともない、エロティックなイメージを起爆力として射精する仕組みはオナニーと共通していても、こちらの場合はそのイメージを一切おのれの意思でコントロールできないことだ。

 
当時、わたしは男子校に通っていたから、級友も教師も男ばかりで、身近な異性とのつきあいがなかったため、エロティックなイメージといったら、同世代のアイドル・スターあたりを脳裏に描くしかなかった。ところが、夜の夢に立ち現れたのは……。なんと、となりの家のオバサンだった。少々派手な印象があったとはいえ、自分の倍以上の年齢のはずで、ふだん何気ない挨拶を交わすだけのオバサンに、ひそかに邪な欲情を抱いていたらしいとは! その罪悪感はずいぶんあとまで尾を引いた。

 
いまにして思うと、夢だけで射精を引き起こすためには、アイドル・スターといった手の届かない存在では起爆力に不足して、もっと生々しい肉体性を帯びた対象が必要だったのだろう。そこから類推すれば、男子のなかには、夜の夢に母親や姉妹が出てきてしまったケースもけっこうあるのではないか。その際の罪悪感はおそらく、となりのオバサンの比ではなく、さぞや心に深い傷を負ったろうと同情を禁じえない。かくして、男子にとって精通とは大っぴらに口外するものではなく、社会とは無縁のあくまで個人的体験なのだろう。

 
上野千鶴子によれば、こうした事情は男子が成長して社会に出てからも継続するという。そして、ようやく結婚する段になって変化が生じ、今度は母親と妻とのあいだの覇権争いへと転換されるとして、その様相をこのように要約する。

 
「妻の不快感は彼には理解不可能なものです。生まれてからずっと、母親の強い管理下に置かれていたのですから。パンツそのものは自分にとってよそよそしくて意味のないものになっています。ただ機能として穿いているだけのもので、誰が管理しても同じ、きれいな新しいものだったら気持がいいだけ。とうに性器の自己所有権を放棄していますから、それほどそのことに固着してくる母親と妻の気持はほとんどわからない。性器管理をめぐる母親と妻の葛藤から、男は完全に疎外されています」

 
この記述もまた自分自身のことに思えるのは、決してわたしだけではないはずだ。
 

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