アナログ派の愉しみ/映画◎内田吐夢 監督『たそがれ酒場』

5~6時間の時間を
気づかせずに盗むトリックとは


一体、どんなトリックを使ったのだろう? 内田吐夢監督の『たそがれ酒場』(1955年)を、目を凝らしてもう一度見返してみる。

 
舞台は、新宿駅西口の大ガード界隈、いまの「思い出横丁」(または「しょんべん横丁」)に実在した店を模したという大衆酒場。壁にはビール120円、酒の特級100円、一級80円、二級50円、焼酎大盛り50円、普通35円、また、やきとり、バタピー、お新香、ベーコン、鯨みそ……といったつまみが10円から50円までの値札をつけて貼り出されている。この映画からは時代が下るけれど、わたしもこうした場所でずいぶん安酒を煽ったものだ。

 
6人掛けのテーブルが20ばかりとカウンター席。カメラは、そんな店内から一歩も外に出ることはない。開店準備の夕刻5時に始まり、やがて店が開くと、教師と学生のグループやらサラリーマンの集団やら、いわくありげなカップルやらヤクザのチンピラやら、偶然に出会った戦友同士やらコソ泥まがいやらの、有象無象の客たちが出入りして、それを女給たちがあしらい、ステージでは専属歌手が美声を聞かせ、さらにはストリッパーのダンスが登場して華やかに盛り上げ、そこにさまざまな人生模様を折り込みながら、終電の時刻を迎えて、午前零時すぎの閉店後までが描かれるのだ。

 
ストーリーに特段、異常なところはない。わたし自身もかつて、このとおりではないにせよ、安酒を口に含みながら束の間の放縦と、それにともなう苦い悲哀を味わった記憶が自然と蘇る。しかし、異常なのはここからだ。この映画は1時間半ほどの尺で、劇中の時間を飛ばす場面が見受けられないにもかかわらず、夕刻から深夜までの7時間以上を描いているのだ。映画と劇中とが同じ時間の流れで進んでいく例はある。が、ひと筆書きのようにしてこれほどの時間差を吞み込んでしまった作品を、わたしは洋の東西を問わず他に知らない。

 
そのへんの演出意図を内田監督は雑誌の記事で、「同一場所における午後五時から十二時過ぎまでの時間を、連続してとらなければならない。しかも、これを一時間四、五十分に圧縮しなければならない。つまり、観客の眼の前で、五、六時間の時間を、気づかせずに盗まなければならない」と説明して、「時に、時計を出して、その針の進行で解決する方法もあるだろうが、しかし、それでは余りにもイージーに思われて、使用したくない」と続けたものの、具体的な対処法は明らかにしていない。なお、内田監督はのちに「盗まれた時間」自体をテーマとした壮大なサスペンス映画『飢餓海峡』(1965年)をつくっている。

 
どうやって、この異常な事態を成り立たせることに成功したのか? わたしは謎を解き明かそうと、目を皿のようにして再見したのである。その結果、三つほど、トリックの鍵らしいものに気づいた。

 
そのひとつは、この店に入れ替わり立ち代りやってくる客たちの酔うスピード(飲むスピードではなく)が相当速いのだ。それにつられ、こちらも瞬く間に酔いがまわっていく感覚にとらわれ、そして……。酒飲みはだれでも経験があるだろう。ほんの5分と思っているうちに、もう1時間も経っていたことが。そう、酔客の時間はとかく猛烈な速さで驀進していくのだ。実のところ、こうした時間の攪拌がもたらす酩酊こそ、酔っ払いにとって何よりの醍醐味かもしれない。その原理をここに導入したものと理解している。

 
あとの二つの仕掛けは……。いや、やめよう。わたしの気まぐれな探索をむやみに明かすのは無粋というものだろう。もしご関心があれば、それぞれに解明に取り組んでほしい。むしろ、そんなことよりも、酒盃を手にしながら、内田監督が腕をふるった時間のマジックに身を委ねたほうがずっと愉悦を味わえることを断言しておこう。

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