アナログ派の愉しみ/音楽◎ハイドン作曲『ピアノ三重奏曲』

わたしを不眠症から
救ってくれた名品たち



典雅、という形容がいちばんしっくりくる。わたしが愛してやまないハイドンの『ピアノ三重奏曲』のことだ。

 
フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは、1732年にオーストリア北東部ローラウ村に生まれ、8歳のときにウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊に入って音楽活動の第一歩を踏み出した。のちに同じウィーンを拠点としたモーツァルトより24年、ベートーヴェンより38年早くこの世に生を享けて、クラシック音楽の中核をなす交響曲や弦楽四重奏曲のジャンルを確立した「父」と呼ばれ、その土台の上にモーツァルトもベートーヴェンも偉大な傑作をつくりあげることができたのだ。

 
パパ・ハイドンの業績はそれにとどまらない。作曲をはじめた10代後半から晩年の70代に至るまで、一日たりとも休むことなく仕事を続けたといわれるだけに、さらに幅広いジャンルにおびただしい作品を残している。そのなかでもわたしが惹かれるのは『ピアノ三重奏曲(クラヴィーア、ヴァイオリンあるいはフルート、チェロのための三重奏曲)』で、約40曲が残されており、いずれも独自の色彩を放つ粒よりの宝石のようだ。音楽がはじまると、どんなときでもたちまち気分が浮き立ってくる。

 
たとえば、第一作の変ホ長調(XV-36)は、ハイドンが20代なかばでボヘミアのモルツィン伯爵家の宮廷監督の職にあったころにつくられたと見なされている。連日、紳士淑女が集って音楽を楽しんでいたところ、あるとき、伯爵夫人のドレスの胸元を目にしてハイドンがピアノの演奏を止めてしまい、理由を聞かれると、「恐れながら、その眺めに惑わされない者はおりますまい」と答えたという。この曲もそうしたサロンの雰囲気を反映して、第2楽章にはリズミカルなポロネーズ(ポーランドの舞曲)が置かれ、いやがうえにも恋心をくすぐる脂粉の香りを撒き散らしていく。

 
また、後年の1795年に出版されたト長調(HV-25)は、かつてよりずっと音色のパレットが豊かになり、第3楽章にエキゾティックな「ジプシー・スタイルによるロンド」を配して、このジャンルのなかでもひときわ華やかな魅力を誇っている。当時、ロンドンに滞在していたハイドンは、作曲家ヨハン・ザムエル・シュレーターの未亡人レベッカと知りあい、40代だった相手に熱をあげて、この作品を含む曲集を献呈している。本人はすでに60代の高齢に達してレッキとした妻や愛人があったにもかかわらず、である。そうした胸のうちをあからさまにひけらかす天真爛漫ぶり!

 
「なぜ私は女性にモテるのかわからない」の言葉もハイドンは残している。しかも、うぬぼれが少しも嫌味にならず、音楽のうえでの快活さにつながっているところが余人には真似できない持ち味なのだろう。モーツァルトのような透明な明るさに秘められた悲しみとか、ベートーヴェンのような勝利をめざして格闘する厳しさとかいったものとは無縁に、万人に向かって屈託なく微笑みかけてくる……。本当に不思議だ。それは音楽家の父親を持つふたりと違って、大らかな田舎の車大工のもとに生まれた出自によるものだろうか。だとしても、その後はとうていひと筋縄ではいかない生涯を送ったはずなのに。

 
わたしは東日本大震災が起きたとき、会社の新規事業立ち上げに携わっており、そうでなくても不慣れな手際で組み立てたガラス細工のような企画はあっけなく崩れ去った。その手の話は当時、世間に掃いて捨てるほどあったろうし、ほんのささやかな事例のひとつに過ぎなかったろうけれど、わたしなりに事後の始末に右往左往するうち、血圧がハネ上がるは、不眠症になるは、いっそう酒に依存するは、かくてドクターストップがかかるは、の苦汁を味わった。それを救ってくれたのがハイドンだ。あのころボザール・トリオの演奏する『ピアノ三重奏曲』全集が存在したのは天恵だったし、以来、そのCD9枚組のセットはずっとラックの最前列で不動の位置を占めている。

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