アナログ派の愉しみ/音楽◎R・シュトラウス作曲『ばらの騎士』組曲

その美に惹かれるのは
個性の氾濫に飽き飽きしているからだろう


嫋嫋(じょうじょう)、と評したらいいのか。オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が演奏した『ばらの騎士』組曲の録音(1964年)の、なんら個性を振りかざすことなく、音楽の自然な流れがきらめくようなこの美しさはどうだろう。わたしはこれまでこの指揮者について、ホロヴィッツの弾くラフマニノフの『ピアノ協奏曲第3番』で伴奏をつとめたCDぐらいしか聴いた覚えがなかった。それが最近、しきりと琴線に触れる存在となったのはここまで年齢を重ねたせいかもしれない。

 
ユージン・オーマンディ。1899年ハンガリー生まれのユダヤ人。21歳のときにヴァイオリン奏者としてアメリカにやってきて、ニューヨークの劇場オーケストラを指揮するようになり、1931年ミネアポリス交響楽団の常任指揮者、1938年には名門フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就いて、42年間の長きにわたって任にあり、1985年死去。その半世紀以上におよぶ指揮活動のなかで録音にも熱心に取り組み、大スターのカラヤンやバーンスタインに匹敵するほどの演奏記録を残した。

 
それだけの業績を誇りながら、日本で必ずしも評価されなかったのは、いわゆる「母と子の名曲アルバム」のたぐいのアルバムが多かったからだろう。クラシック音楽においても大衆消費時代に入った事情を反映してのものだが、そこに含まれる『スケーターズ・ワルツ』や『草競馬』『おもちゃの行進曲』といったナンバーをいま耳にしてみると、オーマンディは一切手抜きしないで作品への敬意を持って演奏していることがわかる。おそらくはこうした姿勢が、シベリウス、ラフマニノフ、バルトーク、ショスタコーヴィチ……などの20世紀の気難しい作曲家たちにも信頼されたのだろう、同世代の指揮者のなかではひときわ幅広い現代音楽をレパートリーとしていた。

 
オーケストラの指揮法について、オーマンディはインタビューに応えてこう語っている。「人は、こうなりたいという自分ではなく、ありのままの自分を見つめなければなりません。若い指揮者に私がいつも言うのは、指揮をするときはいつも、同時に客席の10列目に座って、自分自身を見るように心掛けなさい、音楽の結果に耳を傾けなさい、ということです」(山本一太訳)――。そうしたかれの演奏の特徴を端的に示すのが、『ばらの騎士』組曲だと思う。

これは、リヒャルト・シュトラウスがモーツァルトの『フィガロの結婚』への憧憬のあまり、第一次世界大戦直前という非常事態のヨーロッパにありながら、音楽の力で昔日のハプスブルク王朝の栄光を現出させようとしたオペラ『ばらの騎士』(1911年)にもとづく。そこから有名な旋律を抜き出したこの作品自体、まるで精巧なガラス細工のようなつくりだから、余計な手つきで扱ったらたちまち壊れてしまう。オーマンディが言うとおり、「ありのままの自分」を見るように心掛けるしかないだろう。

実は、かれがこの曲を演奏したときの映像(1977年)も残っていて、そこには、指揮台で両目をつぶって没入してみせるカラヤンや、汗だくになって飛び跳ねるバーンスタインとは違って、ただ規則正しくタクトを操るだけの、およそオーラを感じさせない禿頭のオッサンの姿がある。これ見よがしに振りかざすばかりが個性ではあるまい。徹底して個性を削ぎ落としたところにも個性があり、そこからなにものにも邪魔されない音楽が笑みをもって嫋嫋と流れてくるのだ。

 
わたしがその美に惹かれるのは、いまさらながら個性の氾濫に飽き飽きしているからだろう。


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