古典派経済学の想定する生産的労働と不生産的労働〜経済学原理第一章二節について〜
マルサスやアダム・スミスのような古典派経済学者にとっての「生産的労働」とは、一体なんであろうか?これは端的にいうと、「利潤を出すものであり、なおかつ物体化する商品を作り上げる労働」になる。実際にスミスは国富論のなかで、「不生産的労働者」の例として、軍人や司法関係者、弁護士、宗教関係者、文筆家、医者、芸能人を挙げている。もっと詳しくいうと、公人たる軍関係者や司法に関わる人たちは、原則的に利潤とは無縁だし、他の職業は文筆家を除けば、一応利潤を生み出すが物体的な商品は作れない(もっとも、宗教家は金儲けはあまり好ましくないが)。なぜ文筆家が例に入っているかというと、当時は書物を販売し利潤を得ることが、まだ一般的ではなかったからだ。
国富論と経済学原理を読んでの考察だが、スミスやマルサスは、生活必需の高い材料や資料、道具になる数々の物質を重要視したと思われる。利潤の追求がなければ資本主義は成立しないが、人々の欠かすことのできない生活物質は、その下にある大きな支えというわけだ。
スミスもマルサスも不生産的労働者の必要性は否定しなかった。人間社会は生活物質と生活基盤があれば問題ないわけがないのだ。ただしマルサスは周知の通り、不生産的労働者が齎す有効需要の創出に着目していた。そこがスミスとの大きな差異だ。
今回の研究の肝は、「有効需要の理論家としてのマルサス」をいかにして掘り下げるかであるが、本当に骨が折れそうだ。