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北野天満宮に行った話

 今日、北野天満宮に行ってきました。
 僕は京都に住みはじめてまだ四ヶ月だけど、その前からちょくちょく旅行で京都には来ていたので(修学旅行だって、中学高校どっちも京都だった。両方とも聖護院に泊まった)、京都の主要な観光地はだいたい訪れたつもりだった。
 市内にある清水寺、三十三間堂や二条城、銀閣、金閣、平安神宮あたりは早々にコンプリートしたし、ちょっと外れた貴船神社や伏見稲荷も、それぞれ一回ずつではあるけど行ってみたことはある。

 でも、なぜか北野天満宮だけは行ったことがなかったので、今日思い切って行ってきました。
 なぜ北野天満宮にだけ、まるで市内の観光地図から抜け落ちたみたいに、一度たりとも行ったことがなかったのか?ちょっと考えてみたけれどよくわからないので、その疑問は「巡り合わせ」の一言ですべてを片つけてしまうことにして、とりあえず北野天満宮に向かった。僕の家からだと自転車で30分くらいの距離だ。今日はクソ暑い日だったので(京都風(たぶん)に丁寧に言えば「クソみたいにお暑い日であられたので」)、30分自転車を漕ぐのは思いの外キツかった。道中のドラッグストアでカルピスを買った。みなさん、京都の夏の正解はカルピスですよ。
 
 僕は北野天満宮について何も調べずに行った。一般には「受験の神様」みたいな扱いを受けていると思うけど、それも今この文章を書き始めてから気がついた(だから「国公立大学合格」みたいな絵馬が多かったのか)。
 幼稚な感想を書くと、北野天満宮は素敵な場所だった。おおきくて、むかしっぽくて。すごいなー、というかんじだった。いや、というのは冗談にしても、往々にして「良さ」みたいなものを文字化するのはすごく難しいと思う。


北野天満宮のワンショット

 北野天満宮に限らず、寺社仏閣(という呼称の正確性はわからないが、便利だから使ってしまうのだけれど)は往々にして観光地になる。特に京都の場合、寺社仏閣、もしくはその参道が観光地のほぼすべてと言って過言でないと思う。
 僕らは何を求めて北野天満宮だったり、清水寺だったり、金閣寺に行くのだろう?たとえば敬虔な臨済宗の信徒が、南禅寺(臨済宗の大本山)に行くのはよくわかるけれど、当然、南禅寺の観光客のほとんどが臨済宗の信徒ではないわけだし、きっとその建築や庭園の歴史、真価だってあまりわかっちゃいない。僕みたいに、何も知らず北野天満宮に行き、そして何も知らないまま帰っていく人だっている。だから、僕は北野天満宮が最近オープンした歴史体験ミュージアムである可能性を捨てきれない。
 まあ流石にそれはないにせよ、多くの観光客は歴史的建造物の真価をその5パーセントも分からずに通り過ぎていくわけである。そんな観光産業が京都市に人を呼び、財政を潤し、僕が出した可燃ゴミを焼却炉で燃やしてくれるわけである。
 僕らは長年使ってみてやっとわかる道具の良さ、住んでみて初めてわかる街の魅力、などといった比較的長時間かけて理解しうる類の「良さ」を知っているけれど、僕らは観光においてそのような良さを体験することはできない。昔の趣があって素敵で、厳粛な雰囲気があって、非日常な場所、というフラットな理解の下にすべての寺社が押し込められてしまう。そして多くの観光客は旅行前に想定したイメージとそう変わらない(ように見える)良さを再認識するばかりになってしまう。仕方ないことかもしれないけれど。
 北野天満宮は七夕が近いせいもあって、短冊の掛かった笹が何本もかざってあった。北野天満宮で見たものではないけど、僕が秀逸だと思った願い事は、近所のスーパーに飾ってあった、とある幼稚園生作の「たくさんねがいごとがかないますように」というお願いだ。確かに、短冊でたった一個の願い事を叶えてもらうより断然効率的ですよね。思わず笑ってしまった。

 北野天満宮から東の方向、山に向かって自転車をかっとばして帰宅する。一つ一つもれなく名前がついた路地たちを、いくつも横断する。清少納言は「夏は夜」って言ってたな、などぼんやりと思う。生憎、蛍は現在の市の中心部には飛んでいない。もう日は暮れかかっていて、市中を覆った熱気も徐々に京の盆地からひきあげていく。結構いい日だったな、と思いつつ帰宅したから、全体としてかなりいい日だったんじゃないかと思う。

 

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