「数」を定義してみよう──ペアノの公理

 数学科の一年生のときに習った「数の定義」について紹介してみようと思います。

 アメリカの発明家、エジソンの有名な逸話にこんなものがあります。小学生だった彼は、1+1がなぜ2になるのか、どうしても理解できなかった。だってひとつの泥団子とひとつの泥団子を合わせたって、まだひとつの泥団子じゃないか。こんなことを学校の教師に聞いた彼は、簡単な計算さえできない低脳児だとみなされ、大人たちに馬鹿にされた挙句、学校を辞めたそうです(その後は母親からマンツーマンの教育を受けます)。
 この逸話の真偽はさておき、1+1は本当に2であるか?というのはなかなか奥が深い疑問です。
 もちろん、普通の感覚では1+1は2で当たり前です。そこに反論の余地なんてありません。「1+1=2」以上に当たり前の事実だなんて、挙げてみろというほうが難しいくらいですよね。
 ではどこに議論の余地があるか。それは「1」とか「2」ってなんぞや?記号の「+」ってなんぞや?という部分です。
 1は1に決まってるだろ、という循環論法的な回答は数学では御法度です。数学の世界ではすべての対象に明確な定義が必要なのです。少し込み入った余談にはなりますが、1+1の値も1が普通の数(整数とよびます)を表す記号ではなく標数2の体の単位元を表している場合は1+1=0となります(「標数」とは大学二年か三年くらいの代数学で習う概念です。標数が2、とはコンピューターで用いる二進数というヤツとアイデアは同じです)。よく言われる冗談で、危篤状態から意識を取り戻した数学者に、医者が意識の確認のため「1たす1は?」と聞いてみたところ、数学者が「標数が与えられていないので回答不能」と答えたため、まだ意識が朦朧としていると判断された、という話がありますが、このように「1」もちゃんと定義していかないといけないのです。

 1+1=2という世界一有名な問題を理解するため、「1」の定義を与えていきます。そのためには「集合」と「写像」という概念を避けては通れません。ガリレオは「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」という美しい名言を残したのですが、彼に倣って表すなら「数学という書物は集合と写像の言葉で書かれている」といえるほど、集合と写像は現代数学の基本言語をなしているのです。(数学に素養がある方からは「圏論を無視するな!」とツッコミが入りそうですが、圏論は見ないふりをします。ごめんなさい)。

 集合とはざっくりいえば「もののあつまり」です。…-1、0、1、2、3…という整数を全て集めたものも集合ですし、そこから0、1、2だけを取り出したものも集合です。数に限らず、{日本人全員}からなる集合を考えることもできますし、{イワシ、マグロ、サンマ}みたいな3つの要素からなる集合も考えることができます。
 写像は、ある集合の要素に別の集合の要素を対応づける関係のことです。
 たとえば「6を足す」という操作は整数の集合の要素「3」に対して整数「9」を、整数「5」に対して整数「11」を対応づけているので、整数から整数への写像ですよね。イワシに対して鰯、マグロに対して鮪、サンマに対して秋刀魚を対応づける操作は{イワシ、マグロ、サンマ}という集合から{鰯、鮪、秋刀魚}という集合への写像になっています。もちろん、最後みたいな集合とか写像は実際の数学の現場では使いません(きっと不便極まりないから)。
 説明が長くなってしまうのですが、写像が「単射」であるということも議論において重要です。たとえば整数に対して、その整数が偶数なら0を対応させ、奇数なら1を対応させるという操作は整数から{0,1}への写像になっています。でも、これまでの例と違うのは、対応させた結果0になったり1になったりする数がたくさんあることです。たとえば2も4もこの操作だと0に対応しますよね(偶数だから)。一番最初の6をたすという操作の例では、たとえば対応させて9になるのは3だけですよね(x+6=9を満たすxは3のみだから)。最初の例、もしくは魚介類の集合の例のように、「違う要素なのに同じ値に対応している」という心配がない写像を単射と呼びます。

 これで下準備は完了です。
 先ほど、あらゆる数学的対象には明確な定義が必要だ、みたいなことを書いたのですが、そこには例外があります。当然の話ですが、何も仮定しない(つまり何の存在も数学的に認めない)なら何も生み出せません。そこで数学では、〇〇は存在している!(もしくは成り立つ)と何の証明もなしに宣言することがあります。数学用語では「公理」と呼びます。そこで、ここに一つの公理を宣言することにします。

 【公理】
  ある集合Nとその要素xで
 1)NからNへの単射な写像fが存在する。
 2)fによってxに対応づけられるNの要素は存在しない。
 3)数学的帰納法が成り立つ。
  の3条件を満たすものが存在する。

 これは有名な「ペアノの公理」と呼ばれるものです。(3番目はもっと数学的に厳密な言い方がありますが、省略)。ペアノの公理ではこのような条件を満たす集合Nとその要素xがある!と宣言しているのですが、そんなの本当にあるでしょうか?
 
 たとえばNを1、2、3、4…という数の連なり(自然数)からなる集合、xを1、fを与えられた数に1を足した数を対応させる操作、としたらどうでしょう?よく考えれば、これで条件を満たしていることがわかります。
 実際に存在するんだから「公理」なんて言う必要ないじゃん(あるって証明されてるじゃん)!と考えたくなりますが、数を構成するとき、我々は数そのものを知らないので、それはできません。なので要するにペアノの公理とは、自然数を構成するために「自然数的なもの」の存在を自然数を使わずに宣言したもの、となります。
 これでついに1が定義できます。
 【定義】
  ペアノの公理を満たす集合Nとその要素xについて、このxを1という

 次いで、2の定義もできます。
 【定義】
  1をペアノの公理を満たす写像fで対応させた値を2という

 3、4…も同様に定義できます。

 なんで1とか2みたいなごく自明に見える対象を定義するのに、こんなまどろっこしい方法を使ったのか?それは数学という学問が集合と写像の言葉で書かれるからです。この構成法では、数字の存在を公理として認めるのではなく、集合、写像の満たすある関係(自然数も満たす関係)の方を公理として採用しています。
 誤解されがちですが、数学、とりわけ現代数学は数字を操る学問ではなく、それらを抽象化した集合、写像を操る学問なのです。学生の自分が断言するのは相当おこがましいですが、きっとそうだと思います。数学に触れている身からすれば、いわゆる数字という対象はこの上なく具体的にみえます。

 さてこれで自然数の定義が終わったのですが、肝心の「1+1=2」の謎は解けていません(道は結構険しいのです)。長くなってしまったので、続きは機会があれば投稿したいと思います。

余談
①ここから自然数→整数→有理数→実数→複素数という順序に数の世界は拡張されます。有理数の厳密な構成には環の局所化、実数の構成には有理数の完備化、複素数は実数の代数閉包(もしくは2つの直和に適当な演算を入れたもの)として定義できます(自分が知らない定義もたくさんあると思います)。高校数学で習うこれらの数も、数学的に厳密に構成するとなると大変なのです。
②ペアノの公理で登場した写像の単射性は、定義した数字たちがよく知った数字と同じ挙動をしてくれることを保証しています。



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