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【自伝】生と死を見つめて(10)精神病棟

A病院に入院していた頃、色々なことがあった。

まず、この病院の基本方針が「グループミーティングへ出ること」だった。当時の主治医は、ことあるごとに「ミーティングで話しなさい」と語っていた。「眠れない」と訴えれば「話しなさい。そしたら眠れるようになるから」、「過去の記憶で怒りが収まらない」と言えば「話しなさい。そしたら楽になるから」といった具合に、グループミーティング絶対主義者だった。

しかし、何故グループミーティングが精神疾患に効果があるのか、その説明がまったくなかった。医師だけではなく、看護師もスタッフも、誰も教えてくれなかった。医学的根拠があるのかないのか分からないことを、医療行為としてやらされていたのだ。もちろんミーティングに出たからといって、私の精神症状に対して、何の効果も実感することはできなかった。

また、「ノーマライゼーションがなかなか社会に浸透せず、身体障害者としての立場を理解してもらえなくてつらい」ということを主治医に話したところ、「あなたの言い分はもっともだ。しかし現実を見ろ」と言われてしまった。「現実に疲れ果てて心を病んでいるというのに」、「しかも医療従事者がそんなこと言うのか?」と我が耳を疑った。この病院は福祉的な観点から見ても、非常に遅れていると感じた。

さらに、看護師やスタッフの問題点、改善して欲しい事を指摘したところ、「正論過ぎて腹が立つ!」と言われた。この医師は不誠実な人間なんだなとガッカリした。

この頃の私は、まったく眠れず、ほとんど食べられず、いつもフラフラで、ようやく生き永らえているような状態だった。しかし、それを主治医に訴えても、「水飲んでれば死なないから」と言われる有様だった。追い詰められた私は、110番に「病院に殺される!」と電話をかけた。もちろんすぐに切られてしまった。気が狂っている人だと思われたのだろう。それはもっともだと思うが、あの時の私は、本当に真剣に命の危険を感じていたのだ。「安心・安全」をモットーとしていた病院だったのに、これでは本末転倒だと思った。

この病院の医師や看護師は、「患者の病気を治そう」という気持ちよりも、彼らの自己満足の道具に、患者を利用しているのではないかと思った。仕事の評価が何よりも優先されて、患者が彼らの意に沿わないことをすると、怒ったり非難したりしてきた。自分達の思い通りに患者をコントロールしようとしているように感じた。今思えば、随分と理不尽な扱いを受けてきたように思える。

また、このA病院で人気だった医師や看護師の一部は、「セルフプロデュース」が上手だったのではないかと思う。人を惹きつける「カリスマ性」のようなものだ。私も始めはそれに魅了されていた。しかし、人の心に入り込む能力が、必ずしも良いことだとは限らない。むしろ悪用されることが多いのではないだろうか。

また、主治医からは、「治らなくってもいいじゃない」と言われたりした。それも一つの考え方なのかもしれないが、少なくとも医師が言っていい言葉ではないだろう。「お前は一体何のために存在しているのだ」と思った。


入院中、閉鎖病棟や保護室に入っていたことがある。両方とも、重症の患者だけが入る場所だ。

自殺未遂をした時、鬱々とした気分から、一転して躁状態になったことがあった。お酒も飲んでいないのに酩酊したような状態になり、ハイになってゲラゲラ笑っていた。これでは一般病棟に入院するのは無理だと言われ、閉鎖病棟に入れられた。その名の通り、病棟の外へは出られない所だった。

そこはものすごい場所だった。ほとんど眠っていたのであまり覚えていないが、ずっと唸り続けている人や、ズボンとパンツを脱いだ状態で廊下に横たわっている人などがいた。私も気に入らない看護師がいた時に英語で怒鳴りつけたりしていた。そこにいる患者は皆相当おかしかった。もちろん私も。

保護室はもっとすごかった。刑務所の独房と同じような感じなのではないかと思った。部屋の壁は淡い緑色で、窓にはガラスブロックがはめ込んであり、開けることが出来ないようになっていた。ベッドにはゴムのカバーがかけてあり、掛け布団や枕などはなかった。トイレには仕切りなどはなく、和式の穴が床にむき出しになっていて、看護師を呼ばないと、水を流せないようになっていた。

私はその部屋で一人ひたすら歌っていた。今思えば、完全に自分を見失っていたのだと思うが、その時の自分は必死だった。生きたかったのか、死にたかったのか。混沌とした時間の中、その1分1秒が永遠と思えるほどつらく長かった。もう二度とあんな所には戻りたくない。切にそう願う。


精神病棟に入院中、つらいことばかりではなかった。

心が苦しい時には、大好きなキン肉マンや植木等さんの動画を観て、自分を勇気付けていた。病室にはキン肉マンのフィギュア(しかも超人血盟軍)やスグルのぬいぐるみを飾っていた。

主治医に「憧れの人物は?」と聞かれてスグルだと答え、「”奇蹟の逆転ファイター”なんですよ!」、「”心に愛がなければスーパーヒーローじゃない”んですよ!」とまくしたてるも、全く理解してもらえなかったりした。

病状が回復してきて、病室からデイルームに出られるようになってからは、結構自由な行動もとるようになってきた。

アルコール依存症の患者さんに「チョイト一杯のつもりで飲んで」と歌って聴かせたり、気性が荒くて公務執行妨害で逮捕されたこともあるという患者さんに「何かカッコいい英語教えて」と言われたので、「"You're Fuckin' Mother Fucker"がいいよ」と答えてしまったり、ろくなことをしなかった。自由時間にはカラオケを陣取り、延々とホイットニー・ヒューストンの曲を歌っていた。

また、「キン肉マン」の著者であるゆでたまご先生の「生たまご ゆでたまごのキン肉マン青春録」をデイルームで読んでいたのだが、その姿を夫が見ていたらしく、「何か難しそうな分厚い本を読んでる」と思ったのだそうだ。夫と仲良くなったのも、夫の名前がキン肉マンの登場キャラクターと同じだったことがきっかけだった。

私の闘病生活は、キン肉マンと植木等さんに支えられていた。


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