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破壊と再生〜私の父は素晴らしい人です〜









いつも不安で生きてきた
アラフィフみよちです

心の病みで真っ暗だった50年


そこから一転


本質的な幸せを感じられる心を
取り戻すことが出来た


そんな私の過去のストーリー
を綴ったブログです







私は反動形成を知らなかった。何となく聞いた事はあるけど私には関係ないと思って生きてきた。私が最高の生き方だとしていた【尽くす】が、自分が尽くされたいから【尽くす】をしていた。もちろん【心がこもった尽くし】ではない。それが反動形成だなんて、立ってられないほどの衝撃だった。









そして、意識では【嫌われるのなんて怖くない!】無意識では【嫌われたくない!】って怯えていた。だから私はいつも何をするにも動機は【嫌われたくない】からだった。








私の父は優しくて、温厚で、穏やかで人に親切な人だった。私は小さい頃から、聞かれてもいないのに人に言ってまわっていた。【私の父は素晴らしい人です】と。まわりの大人たちもいつも言っていた。【優しくて、穏やかで仏様みたいな人】【あんないい人いない】【あんないい人を怒らせるなんて】【子供を愛している素晴らしい人】etc








50年近くそう思い込んできた。でも本当の父は家ではオオカミだった。外では子羊、内では狼…。私の母は夜スナックで働いていた。父は実家の米屋をしている風だったけど、米屋は祖父母とおじで経営している。だからヒモだった。日中はスポーツジム、夜私達の面倒を少しみて母のスナックに出かけていくのだった。その夕食時、父の機嫌がすべてだった。昨日は良かったことが今日はダメ。








正義の仮面、躾の仮面、道徳の仮面、人として、、それらの仮面をつけて毎日、毎日いじめられてきた。兄はいつも暴力を受けていた。私は女の子だからそれほどではなかった。父が機嫌が悪くならない様に常に機嫌をとっていた。自分を笑いモノにしてまでも。そして私達は、こんな素晴らしい父を怒らせた私達が悪いのだとそう思って生きてきた。心の奥底にものすごい、憎しみ、怒り、敵意を隠し持ちながら生きてきた。さらには私達兄妹は、心に手錠をかけられていた。







私はずっと、子供の頃から【誰も助けてくれない】【誰もわかってくれない】【誰もまもってくれない】そう思い込んで生きてきたし、そう決め込んだのも自分だった。



『ほらね』『ほらっ!助けてくれないじゃん』

「ない」しか見ないように生きていた。
 誰も助けてくれ【ない】世界に自らいた。




確かに幼少期から誰も助けてくれなかった。わかってくれなかった。守ってくれなかった。



…そして50年もその世界にいた。



きっと、手を差し出してくれた人もいたんだと思う。だけど、その好意を受け取れなかった。きっと、【ない】世界が当たり前過ぎてわからなかったんだと思う。



幸せになりたいといいながら、しっかり『ほら、やっぱりダメじゃん』を握りしめていた。





私は男の人が怖い





その本心を知ったのも50過ぎてから。父親と同じ様な男と結婚して【私の旦那は素晴らしい人です】って言ってまわった。  




同じことを繰り返して生きてきたのだった…



〜引用始まり〜

【心の殺人者としての親】

例えば父親である夫が神経症者であるとする。妻との関係がうまくいかない。妻に憎しみを持つ。

しかし父親は弱いからそれを認識できない。無意識の領域に憎しみを追いやる。そこでイライラする。

そのイライラを子供に向けて発散することで解消する。

神経症者的傾向の強い親は心理的につらい。何かを「すべき」だという「べきの暴君」に苦しむ。

すると、そのつらさを子供にプレッシャーをかける事て解消する。
これは精神分析に関する数々の名著があるカレン・ホルナイの言う「内的強制の外化」と言われる心理現象である。つまり子どもの心を縛っていく。「べきの暴君」と言う用語もカレン・ホルナイの言葉である。

そうしたときには、親は確実に子供の「こころの殺人者」として現れている。
いずれにしろ神経症的傾向の強い親は、その子どもによって心理的バランスを維持できている。

その子どもがいなくなれば生きていけない。

したがって子どもの心にプロメテウスが動きだしたことを察知したときには、神経症者的傾向の強い親は殺人的憎しみで子どもに立ち向かう。

親は殺したり殺されたりという激しい憎しみで心理的にパニックになっている。

つまり神経症的傾向の強い親はみずからの生命の維持に、「感情の掃き溜めとなる従順な子ども」を必要としているのである。

子どもの側からすれば「殺されるかもしれないという恐怖感」を持つのは当たり前である。


しかし従順を強いられている以上、
その恐怖感を意識することはゆるされない。

無意識では親を恐れ憎んでも、意識では親に対して「立派な親」であることを感謝していなければならない。

しかし、どんなに意識の上で親に感謝をしても、この「殺されるかもしれないと言う恐怖感」は無意識の領域で確実に息づいている。

〜引用おわり〜

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