見出し画像

エッセイクラブ誕生秘話とその前身

 とにかく書くことが好き、というわけでも、本が好きで暇さえあれば読んでいる、というわけでもなく、活字とはつかず離れずくらいの関係だったのだが、この3月、思いがけず、“家族でエッセイを書く”、というクラブ活動を始めた。
 このクラブ開始に関しては、姪であり、このクラブの運営者である、初孫アヤメさんが、その新作『90歳越えの祖父を巻き込んで、家族で「noteエッセイクラブ」をはじめた話』の中で明確に説明してくれている。まさにその通りであり、ちゃんとしたためてくれて、ありがとうの気持ちだ。
 同時に、姪からボールを投げ込まれた気がするので、ちゃんと返球したく、エッセイクラブの前身、とまではいかないが、エッセイを書くに至る経緯を記そうと思う。
 
 コロナ禍真っ只中の2021年秋。札幌に住む父に大腸癌が見つかった。病院は手術による腫瘍の切除を勧めた。いつ頃、どこの病院で、どんな方法で、と決めなければならない項目がいくつもあって、東京在住の私は、何度も東京札幌を往復した。医療に詳しい知人や親戚から意見、アドバイスを受け、母と、父本人の気持ちを中心に、決定していった。
 手術は12月中旬と決まった。「今年中には退院できると思いますよ」との主治医の言葉に、私は、あ、良かった、と軽く見積もった。ただし、この入院は結果的には1ヶ月以上に及んだのだが。

 入院の数日前に再び来札した。海外旅行並のスーツケースに、病院から指示された『入院準備品』をひとつずつ詰め込んでいく。しかし、実際は父の最重要必需品である『ワープロ』を中心に荷造りは行われ、カバンはあっという間にパンパンになった。昔のワープロというのは、今のパソコンの数倍ぶ厚く、しかも重い。しかし、父はワープロだけは是が非でも持参する構え。初孫アヤメの言う通り、三度の飯より、書く、書く、書く、そんな人なのだから。

 父入院の数日前、私は何となく、スマホのメモ機能を使って、文章を書き始めた。そう呼べるかどうかわからないが、これが私の初エッセイとなる。そして、私はそれを印刷しておいた。
 入院当日。家を出る前にPCR検査。実は根っからの病院嫌いの父、いよいよ入院という朝は、どれほど気が重いか、容易に想像できた。出発時間まで、もうさほど時間はない。
 私が書くことで、父を元気づけることができるのか、それは全くの未知数だが、私は少しの勇気を持って、例のエッセイを父に差し出した。
「これ、書いてみた。」
 父はすぐさま文字に目を落とし、黙って読み始めた。私は傍に座って、一緒に文字を追った。あぁ、あの頃と何も変わらないな、ふと、昔を思い出した。
 小学生の私は、作文、特に感想文が苦手だった。書きたいことが書けないもどかしさ、感想ではなく、あらすじを書いて終わってしまうほどだった。あまりの不出来に、学校に提出する前に父に見てもらったのだ、恥ずかしいけど。
 父は、いつもちょっとだけアドバイスをくれた。詳細は覚えていない。しかし、その指摘通りに“ちょっとだけ”筆を加えると、私の作品はにわかに上質になった気がしたものだ。
 今も、同じだ。私は多少の緊張と、父がどこを直すのか、何と言うのかを待っていた。
「ほぉ」と顔を上げて父は言った、
「みみこ、もっと書け。」
 
 父は私のエッセイを入院先に持って行った。それが父を少なからず元気づけたと私は感じた。何故なら、私自身が元気づけられたからだ。それは、書いたものを通して、気持ちが通じ合う瞬間を持てるからなのだと思った。

 1年半後の去年5月、今度は母が緊急入院。心配が高じて、痩せてしまうほどの父と二人、母の帰りを待った。その時も、私は私の書いた拙いエッセイを数本父に読んでもらった。その頃は、今ほど明確な気持ちで書いてはいなかったが、これしか方法が見つからなかったのかもしれない。元気づけたい、ただそれだけだ。
 そしてさらに、今春の父の入院。姪と画策、エッセイクラブ誕生へとつながった。

 当初は、私と姪の原稿に、父が赤を入れてくれれば、と思っていた。しかし、手直しされることなく、原稿用紙は綺麗なまま。目には見えないが二重丸をもらったよう気分だ。正直、それは驚きだが、私は認められた気がして、安心して、また書いていける。

 書くことで力が湧く人がいる。それを読んで力が湧く人もいる。私にはこんなにも近くにいるのだ、じゃあ、書かない手はない。
 そう思ったら無性に「書かさるのさ」、家族のエッセイが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?